伊福部昭礼賛(2)・・・A・チェレプニンのことも


 伊福部昭と言えば、誰しも思い浮かべるのは映画「ゴジラ」の音楽だろう。番組でも、なぜ伊福部がこの映画に曲を付ける気になったかということを始め、先行作品との関係、フリギア旋法の使用に込められた思いといった様々な角度から論じられていた。だが、やはり感動的なのは、伊福部の思考が相対的ではなく、常に自分と日本人というものを正面から見つめ、内部へ内部へとその独自性を探求していった点にある。その伊福部は、晩年、琴(二十五弦箏)を管弦楽曲の中に独奏楽器として取り入れ、やがては、管弦楽を排して、二十五弦箏だけの音楽を書くようになった。世の中の全ては、そのたった一つの楽器で表現できると思うようになったらしい。

 私が知る西洋の作曲家でも、ある時期を過ぎて、過剰から簡素へという道を歩んだ作曲家は少なくない。ベートーヴェンだって、第九交響曲の後の晩年の境地を最もよく表しているのは弦楽四重奏だろうし、R・シュトラウスストラヴィンスキーなどは、若い時期に使っていた管弦楽があまりにも巨大であるだけに、その後のネオバロック、あるいはモーツァルトへの指向が印象的だ。

 だが、伊福部が使った二十五弦箏は、楽器が一つであるというだけでなく、基本的に単音で、日本特有の「間」とか「余韻」を大切にする楽器だという点で、その簡素さが際立っているように思う。テレビで演奏の様子を見ながら、月並みな表現ながら「境地だな」と思った。伊福部が長寿(2006年、92歳で没)であったことにもよるのかも知れないが、生涯を賭して生み出した表現の起伏の大きさは、背後にある伊福部の思想のドラマを感じさせて感動的だ。

 伊福部の作品の録音は、今やたくさん出ているようであるが、日頃1枚1000円未満のCDを買い慣れた身にはずいぶん高価なものばかりだし、作品数も膨大で、どこから手を付ければいいのか分からない。ただ、これはなかなか巨大な人物だと思うわけだから、こちらもそれなりの時間と覚悟とを持って気長に取り組んでみなければ・・・。(完)


【おまけ・・・アレキサンダー・チェレプニンのこと】

 昨日書いたとおり、伊福部は1935年に「日本狂詩曲」でチェレプニン賞首席入賞を果たし、一躍有名となった。チェレプニンという名前は、中国との関係で知っていた。中国では、1934年に賀緑汀がピアノ曲「牧童短笛」でやはりチェレプニン賞首席入賞を果たした。賀緑汀は黄自(→こちら)の弟子で、左翼系の音楽界で活躍し、新中国建国後は、長く上海音楽院の院長を務めていた。自分の意見をはっきりと主張し、文化大革命中は迫害に遭っても屈しなかった硬骨漢として知られる。

 このように書くと、チェレプニン賞は毎年開かれていた国際コンクールのようだが、そうではない。中国では1934年、日本では1935年にそれぞれ1度だけ、作品が募集されたのだ。しかも、不思議なのは、募集の条件が、中国では「中国風のピアノ曲」だったのに、日本では「管弦楽曲」だったことだ。理由は思い浮かばない。

 チェレプニンという人は、我が家にある蕭友梅の「来游沪平俄国新派作曲家鋼琴師亜歴山大・車列浦您的略伝与其著作的特色(上海にやって来たロシアの新しい作曲家・ピアノ教師アレキサンダー・チェレプニンの略伝およびその作品の特色)」(初出『音楽雑誌』音楽芸文社、1934年7月15日。『蕭友梅全集』第1巻、上海音楽学院出版社、2004年所収)によれば、父がリムスキー・コルサコフの弟子であった優れた音楽家、祖母がドイツ人ピアニストで、母が高名なフランス人画家の娘という、文化的に恵まれた家庭に生まれ育ち、ペテルブルグ音楽院では優秀な成績を収めていたが、1年次の終わりにロシア革命が勃発したため、貴族の血が流れていたチェレプニンはペテルブルグを離れ、ティフリス(グルジア)、コンスタンティノープル、そしてパリへと転々とした。そしてパリで、ピアニストとしても作曲家としても頭角を現したのである。

 フランス人とドイツ人の血が混じり、若くして祖国を離れたという事情によるのか、チェレプニンは、民族音楽に対して深い興味と理解とを示した。昨日持ち出した『総力戦と音楽文化』に引用された清瀬保二の「チェレプニンは語る 〜 われ等の道」(初出『音楽新潮』1934年11月号)を孫引きすると、チェレプニンは「ヨーロッパ音楽は行き詰まっている。どうしても東洋の力を借りて自らの糧となし再生しなければならぬ」と語っていたという。もう一度、蕭友梅に戻るなら、チェレプニンは、西洋の音楽理論に対抗するものとして「9音音階」を用い、「対位法(contrapunctus)」ならぬ「対間法(intrapuncutus)」を発明して、独自の音楽創作をした人らしい。作品は多く残されているらしいが、私は聴いたことがなく、コメントも出来ない。

 1934年から37年にかけて、日本と中国、そして欧米との間を行き来し、日本には5回来た(『総力戦と音楽文化』)。前述のチェレプニン賞によって賀や伊福部のような優れた才能を見出し、指導するとともに、私費を投じてアジアの若い作曲家の作品を数多く出版(「チェレプニン・エディション」と呼ばれる)し、アジアの民族音楽に根ざした創作の発展に大きく寄与した。政治制度や軍備と同様、音楽家として一流を志せば、まずはヨーロッパに留学し、ヨーロッパの語法を身に付けることが第一とされていたであろう当時、逆にヨーロッパから東洋に光を当て、たった1度とは言え、賞(相当額の賞金付き)を出し、直接の指導の手をさしのべ、更には受賞者以外のものも含めて多くの楽譜の出版(世界5都市=東京、上海、ウィーン、パリ、ニューヨークで同時に!!)までしてくれた人というのは得難い。

 民族に根ざした音楽が、伊福部だけではなく、多くの作曲家によって作られ、普及し、新しい民族の血となってゆく背後に、こんな人がいたということを思う。もう少し一般に知られてもいい人なのではないか?