伊福部昭礼賛(1)



 1993年夏、私は北京にある中国芸術研究院音楽学研究所図書室という所に、10日間くらい毎日のようにお邪魔をし、あれこれと貴重な文献をコピーしてもらっていたことがあった。その時、司書の方から、「日本人作曲家の資料目録を作っているのだが、日本人の名前の読み方が分からないので教えて欲しい」と言われ、多少のお手伝いをした。ところが、当時の私は、日本人作曲家などあまり知らなかったので、読めない名前がいくつかあった。その中の一つに、今から思えばその名前を知らなかったというのは本当に恥ずかしいのだが、「伊福部昭」という名前があった。

 さて、今年は伊福部の生誕100年だそうである。年始以来、その関係の新聞記事などを見る機会がたびたびあり、確か「題名のない音楽会」でも取り上げていたのを見たりもして、これはなかなか面白い作曲家だと思うようになっていた。そんな矢先、8月30日にEテレで見た「伊福部昭の世界〜「ゴジラ」を生んだ作曲家の軌跡」はたいへん面白く、録画しておいて、その後1ヶ月にも満たない間に、私は4回も見直してしまった。いかにNHKといえども、高村光太郎の苦い思い出(→こちら)があるので、番組の中身を鵜呑みにするのは危険だと警戒しながら見るのであるが、それでもやはり面白い。伊福部という人は、天才であると同時に、音楽的にも思想的にも立派な人であったと思わされた。

 北海道・釧路という当時の辺境地域の出身で、北海道帝国大学に進んだ後、音楽喫茶でストラヴィンスキー春の祭典」を聴き、「こんな音楽なら俺にでも書ける」と思ったという逸話に、まず度肝を抜かれる。モーツァルトを聴いて「書ける」と思うなら理解できるが、「春の祭典」なら普通は「書けない」と思うだろう。独学で作曲を学び、1935年、22歳の時に「日本狂詩曲」を書いた。大きな管弦楽のための交響的作品で、当時、札幌にはなかったらしいハープ(2台)やテューバも使われている。番組の中で、池辺晋一郎が「ありえない」「考えられない」と繰り返しているのが、決して大げさには思われない。

 我が家を探してみたら、唯一見付けることができた伊福部作品の録音はこの「日本狂詩曲」で、その全曲を聴くことができた(沼尻竜典指揮東京都交響楽団NAXOS『日本作曲家専輯』の「日本管弦楽名曲集」)。この作品はロシアの作曲家・A・チェレプニンによって設けられた「チェレプニン賞」(審査員はイベールオネゲルルーセルなど!!!)で主席入賞を果たした。『名曲解説全集』第7巻(音楽之友社、1980年)では、このことを以て「厳正な国際的批判を通して、初めて認められた、日本の管弦楽作品として重要な意味を持っている」と評する。

 伊福部のすごいところは、独学で高度な作曲技法を身に付けたというだけではなく、最初から、日本独自の音楽を追究することで普遍性へと到達しようという姿勢を持った点にあった。ただし、番組で語られるこのような伊福部の姿勢は、番組を見ているだけでは、どれほど独自性のある姿勢なのかが今ひとつ明瞭でない。

 戸ノ下達也・長木誠司編『総力戦と音楽文化〜音と声の戦争』(青弓社、2008年)は、北大で林学を専攻し、卒業後は林学者としての仕事を持ったために、音楽分野において太平洋戦争の翼賛体制の中に組み込まれて行かなかった伊福部の、戦前の音楽活動に触れた数少ない本のひとつではないかと思う。そこには、伊福部が「日本狂詩曲」を生み出した時期の、「日本的なもの」をめぐる日本の楽壇の葛藤が描かれていて、同時代人によるいくつかの注目すべき発言が引用されている。

 例えば、1932年に時事新報社主催第1回音楽コンクール作曲部門審査員の近衛文麿の評「今新人の手で日本の新音楽が開拓される為には、先ずあらゆる標題をなげうって、我々日本民族の内にある純音楽的な特性をしっかり握ってもらいたいのだ。(中略)今日の作曲の志願者にはいづれにしても広い意味でのアカデミックな作曲技法をまず完全に自分のものにすることは必要条件だ」。この後に引かれる原太郎、山根銀二の主張も概ねこの延長線上にある。これらで指摘されているのは、日本独自の音楽をしっかりとつかみ取ることも出来ていなければ、仮につかみ取れたとしても、それを表現するための作曲技術を持っていないという日本人作曲家の現実であった。つまり、日本的なものが何かということを真剣に突き詰めると同時に、西洋流の作曲技法を完璧に身に付けること、そのどちらが欠けても、日本的なるものを通して世界に通用することはできないのである。

 札幌で林学を学んでいた伊福部が、これらのような中央における議論を知っていたかどうかは知らない。少なくとも、近しいものではなかっただろう。にもかかわらず、そのような議論が始まってからわずか3年の時点で、彼は独自に作曲技法を身に付け、自分が根ざしたものを極めることで普遍性を獲得するという信念の下に、ある種の答えとして「日本狂詩曲」を書いた。地に足の付いたものの強さと、迫力、そして天才だけが持つ独創性と完全性・・・映像を見、CDで聴きながら、私はこれらに強く動かされざるを得なかった。 (続く)