「佐村河内守」現象について



 佐村河内守(さむらごうち まもる)という人の音楽が、1年くらい前からしきりに話題になる。3月31日にNHKで特集番組が放映され、今月11日には『毎日新聞』で、まるまる1面以上という破格の特集記事が組まれた。仙台でも、来年4月にこの人の第1交響曲の演奏会が行われるらしいが、来年4月の演奏会チケットを今年の7月から売り出したことといい、東京エレクトロンホールという仙台で2番目に大きな会場で、特別な指揮者が来るわけでもない仙台フィルの、しかも1曲だけの演奏会なのに、チケットが8000円もすることといい、正に異例づくしである。

 一応、音楽に強い関心を持っている私としては、以前から気になっていたので、特番を見た上で、その反響の大きさによって放映されたという彼の第1交響曲演奏会の録画(4月27日)も、録画しておいて3回見た。ところが、私がそれを3回も見たのは、素晴らしいと思ったからではない。これだけ評判になっていながら、何が素晴らしいのか分からなかったから、とりあえず3回見てみた、というだけの話である。もう見ない。私が価値を見抜くだけの力を持たないのかも知れないし、性が合わないだけかも知れない。実際、曲に価値がないのかも知れない。要は、何が何だかよく分からないのである。

 佐村河内という名字は初めて聞いた。すごい時代がかった名字だな、と思う。広島出身の被爆2世で、ピアノを弾くことに関して幼い頃から類い希な才能を発揮したが、作曲を含めて、基本的に音楽は独学で身に付けた。35才くらいの時に聴力を完全に失い、いろいろな病気も持っているらしい。大量の薬を服用しながら、聴力を失ったことによる神経の過敏から身を守るために光の刺激を避け、日中でも自宅ではカーテンを閉め、外出時はサングラスの着用が欠かせない・・・。

 こんな話を聞きながら、私は、危ない、危ない、と思う。いかにもマスコミ(=それを支える多くの人々)の喜びそうな話がてんこ盛りだ。人の喜ぶ話の条件とは・・・、そう、悲劇性と英雄性である。(被災地についての報道の問題として、2011年10月31日に書いたことがある(→こちら)。 このブログで最も反響の大きかった記事のひとつである。しかし、これは被災地報道に典型的に表れるというだけで、実はもっともっと普遍的な話だと思っている)

 健康上いろいろな問題を抱え、しかも聴力を失った音楽家が大規模な交響曲を作曲する。しかも被爆2世である。そこに被災地の少女との交流が絡んでくる。佐村河内といういかめしい名字や、常に黒系の服を着、長髪・髭にサングラスと杖という風貌も演出効果を高めているだろう。宣伝とか広告というものが非常に大きな力を持つ現代に、日本人の国民性という問題もあって、これらの情報に踊らされ、自分も彼の音楽を素晴らしいと思えなければ自分がおかしいのではないかと不安になる、周囲の人の様子に引き摺られてなんとなく素晴らしいという気になる、そういう人は非常に多いのではないだろうか?

 彼の第1交響曲は熱狂的に迎えられているようだ。映像で見ると、日本では珍しいスタンディング・オベーションが長く続いている。しかし、同じ規模の曲として考えても、ブルックナーマーラーのような「古典」としての名声が確立した曲に熱狂できる人の数よりも、佐村河内の曲に熱狂できる人の方がはるかに多い、もしくは熱狂の度が強いというのは、作曲者が会場にいたことを考慮したとしても、明らかに不自然である。

 「現代のベートーベン」という評価も聞くし、佐村河内をベートーベンの肖像画に似せて印刷した新聞広告も目にしたことがあるけれど、正に営業のための茶番である。佐村河内とベートーベンの共通点として「耳が聞こえない作曲家」以上のものを見出すことが、私には今のところできない。200年の批判に耐えてきた音楽と、つい先日書き上げられた音楽を同列に評価できるほど、一般人(ここに含まれない人は、ごくひとつまみの天才だけ)の審美的能力は高くない。そう書けば、今の人を馬鹿にしているようだが、今の人を馬鹿にしているのではなく、歴史を畏敬しているのである。

 音楽以外の雑音が大きくなればなるほど、どれだけ心澄ませて純粋に音楽に向き合えるかが問われてくる。雑音があまりにも大きいだけに、佐村河内はその練習問題として最高の事例であろう。今、彼の音楽を褒めそやしている人の何割が、50年後に、彼の音楽を手放せずにいるだろう?100年後に、オーケストラのレパートリーとしてどれだけ定着しているだろう? 私が何年後までを見届けられるか分からないけれど、楽しみにしていよう。あるいは、来年4月の演奏会チケットを7月から売り出したのは、主催者も現在の人気が曲の真価によるのではなく、一時的な流行であることが分かっていて、ほとぼりが冷める前にできるだけチケットを売っておこうということなのかも知れない、と意地の悪い想像をしてみたりする。