音楽は裏切らない


 佐村河内守という人の作った曲が、世間で大きな話題になっていることについて、昨年の夏に一文を書いたことがある( →こちら)。私自身はその価値がよく分からない、マスコミの報道や演奏会のマネージメントの仕方には怪しいものを感じる、ということを書いたに過ぎず、佐村河内氏自身や音楽を批判したわけではない。もちろん、彼の曲をすばらしいと言う人をバカにしたつもりもない。だが、そう感じた人もいたらしいので、佐村河内ファンの逆鱗に触れたら危ないから記事を削除しようかな、と迷いながら、状況が悪化しないのをいいことに、そのまま半年が過ぎてしまった。

 そうしたところ、今日になって、彼が書いたことになっていた作品(全てかどうかは?)が、別の人によって書かれたものであったことが明らかになった。現在の世の中における情報の拡散というのは恐ろしいもので、朝の時点で既に、私の記事を評価するコメントが入り、ブログへのアクセスが急増した。1日で数千の単位になったのは久しぶりである。私自身も、なんだか「先見の明」があったかのようで、少し気分がよい。

 だが、ちょっと待てよ、と思う。多くの人が熱狂していたらしい交響曲「HIROSHIMA」や「ソナチネ」が本当によい曲なら、それが佐村河内氏の作品であるかどうかはどうでもいいことである。「だまされた!!」というのはよく分からない反応だ。もちろん、ラベルと中身が一致していないのだから「だまされた」には違いないが、曲の価値はそれとは無関係である。「アルビノーニアダージョ」、「L・モーツァルトのおもちゃの交響曲」など、名曲と評価され人々に愛されながら、実は偽作であるということが分かった作品や、誰が書いたか分からない名曲というのは、バロック期のものを中心に、たくさん存在する。バッハの、あの「トッカータとフーガニ短調」だって、偽作説は消えていない。

 耳の聞こえない、被爆2世の、特異な名前と風貌の作曲家の曲ではないことで、曲が突然色あせて聞こえる人がいるとしたら、周辺情報に惑わされて音楽を直視していなかった自分の不徳をこそ責めるべきなのだ。やはりいい曲だから捨てられないというのなら、作曲者が誰であっても、数百年後に伝わればいいのだ。

 NHKが発信源で、その報道を責める声もあると聞く。『毎日新聞』についても同様かも知れない。私が「こんな曲を作曲しました」と言っても、「本当にあなたが書いたのですか?」と尋ねられるに違いなく、NHKや全国紙に信じてもらうのはなかなか難しいだろうと思う。にもかかわらず、佐村河内氏にマスコミがだまされたのは、前回書いたとおり、やはりマスコミが好む臭いがぷんぷんと漂っていたからであろう。あまり責めない方がよい。報道に「悲劇と英雄」とを過剰に期待し、踊らされた視聴者にも非があるし、民事的な責任は本人が粛々と取ればよいからである。

 開催中の「佐村河内守作曲 交響曲第1番 HIROSHIMA」全国ツアーは、今後の分が全てキャンセルになったそうだ。滑稽な話である。「新垣隆作曲 〜」と看板だけ変えて、開催すればよいと思う。純粋に音楽に向き合うことのできるいいコンサートになるだろう。