ファジル・サイの『春の祭典』



 アバド指揮によるマーラー交響曲第4番に感動して、その後も繰り返し聴いていたのだけれど、ファジル・サイによる『春の祭典』を入手し、一休み、こちらを聴いてみた。

 ファジル・サイはトルコ出身のピアニストで、まだ43才。近年、テクニシャンとしての声望並々ならぬものがある。このCDは、そのサイが、究極の管弦楽曲・ストラビンスキーの『春の祭典』をピアノで録音したものである。

 最近、ピアノのプログラムとして、時々この曲の名前を耳にする。私は行かなかったが、確か、何年か前にラベック姉妹が仙台に来た時にもプログラムに入っていたし、来月、アシュケナージ父子がやはり仙台でこの曲を弾く。しかし、それらは4手2台によるものである。ストラビンスキーは、初演の1年前に、2台のピアノでドビュッシーとともにこの曲を弾き、仲間に公開しているから、おそらく、ラベック姉妹やアシュケナージ父子が使った(使う)楽譜は、その時の、すなわちストラビンスキー自身による2台ピアノ版だろう。

 一方、サイのものは、サイ自身による編曲版である。もちろん、管弦楽の可能性を最大限に生かしたこの曲を、2手1台のピアノで弾くのは無理なので、多重録音の技術を駆使して、10手の音を重ね、しかも、プリペアード・ピアノ(あらかじめピアノの弦に物を挟むなどして異質な音が出るようにしたピアノ)も使っている。テクニシャン・サイと現代の録音技術の化合物と言ってよいような盤である。

 聴いてみると、確かに、頑張っているなぁ、と思う。だが、こうやって多彩な音色と複雑な構造を反映した録音を作るなら、元の管弦楽のままの方がいいなぁ、という当たり前のことを思った。ストラビンスキーは、ディアギレフの要請があったからとは言え、管弦楽で演奏することを前提に、その能力を余すところなく発揮させることのできる曲を書いたのである。ピアノで演奏できるくらいなら、管弦楽にはしなかったわけだ。サイの録音は、「楽器はピアノしか絶対に聴きません」という人を驚かせ、感動させることはできるかも知れないが、管弦楽の『春の祭典』を聴き慣れた人を驚かせ、ねじ伏せ、「ピアノの方がよい」、或いは、「ピアノでもよい」と思わせる力は持たない。いいとこ、「ピアノにしてはよい」である。

 解説書に収められた「自問自答」において、サイは、楽譜を見ながら聴くなら、「4手版だけでなくオーケストラ・スコアも用意することをおすすめしたい」と書いているし、録音プロデューサー・ジャン=ピエール・ロワジルは、「ストラビンスキーが4手版には盛り込めなかった、だが管弦楽版には入っている要素も加えることができた」「スコア全体の考えられる限りの最高のトランスクリプションを作り出せるようにした」と書く。つまり、彼らが挑戦したことは、ピアノという一種類の楽器で、いかにオーケストラに近づくか、ということだったようだ。

 しかし、ピアノの音の重なりが厚く、複雑になるほど、一つ一つのパートが音の同質性に埋没してしまう。録音を聴きながら、管弦楽で聴けば、どれほどスッキリと様々な要素を聴き分けられることか、と、何度も思った。

 思えば、世の中にはたくさんの編曲版が存在するが、編曲するからには、それなりの理由がある。『展覧会の絵』は、ラヴェルが原曲(ピアノ2手)の更に豊かな可能性に気付いた結果である。モーツァルトが『メサイア』を編曲したのは、時間の経過に伴う楽器の変化に対応し、『メサイア』を同時代化しようとしたからだろう(ドイツ語化の問題もある)。バッハが、ビバルディの協奏曲をオルガン独奏曲にしたのは、作曲の勉強であり、かつバッハが一人でも演奏できるようにしたかったからだろう。リストによるベートーヴェン交響曲その他の編曲などは、それらの曲を日常的に貴族の屋敷で楽しむことができるようにすることが目的だった。

 では、サイの『春の祭典』は?サイのその曲に対する感動が原典であり、ピアニストとして、何とか自分自身で演奏してみたくなった、ということらしい。しかし、それは、山下一仁がバッハのバイオリンやチェロの曲を、自分の楽器であるギターに編曲した、というのとは訳が違う。大管弦楽をピアノに、である。その場合、管弦楽に少しでも近づけようとするのではなく、ピアノなりの表現、音の重なりが少なくなったことによるメリット(=あれば。場合によっては、曲の構造が見えやすくなったりする)といった異質性を追求しなければ、音域でも音質でも、管弦楽に比べて幅が小さいピアノは、ひどく惨めなものになってしまう。

 サイの『春の祭典』を聴いていて、かろうじて「惨め」とは思わなかったというのは、彼の思い入れと努力の成果だろう。だが、これを愛聴盤として繰り返し聴くか・・・?多分、そうはならない。サイが頑張れば頑張るほど、『春の祭典』は大規模なオーケストラのための曲なのだ、ということが実感されてくる。サイが、自分自身の体験に従い、それほどまでにこの曲に惚れ込んでいるのだとすれば、無理なピアノ編曲と多重録音という文明的な解決を追い求めるよりも、指揮法の勉強に時間を費やした方がはるかによい。もともと音楽的素質に恵まれている人なのだから・・・。