宮澤賢治と音楽

 今月に入ってから、勤務先の図書館で谷口義明渡部潤一・畑英利『天文学者とめぐる宮澤賢治の宇宙 イーハトーブから見上げた夜空』(丸善出版、2022年)という本を見つけて読んだ。「銀河鉄道の夜」を始めとして、言うまでもなく、宮澤賢治の作品には天体に関する言葉がたくさん出てくる。この本は、1896年(明治29年)に岩手県花巻市で生まれ、1933年(昭和8年)に没した賢治が、天文学に関する知識をどのように得ていたのか、ということについて考察したものである。
 それによれば、警醒社という会社から1922年(大正11年)に出版された吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』という本の影響が大きいのではないかとのことである。賢治が学校でどのような理科教育を受けたかということについての考察が一切なく、当時出版されていた天文学関係書籍との関係だけで賢治の知識の来歴を考証しているのは片手落ちな感じがするが、それはともかく、この本は私にある疑問をよみがえらせた。
 それは、かつて「セロ弾きのゴーシュ」を読んでいて思ったことなのだが、なぜ賢治は交響曲やオーケストラを知っていたのだろうか?という問題である。賢治がチェロを持っていて、熱心に練習していたことは有名な事実だが、岩手県という辺境に、賢治が知的活動を開始した20世紀の初頭、どのような音楽環境があったのだろうか。私はそんな疑問を抱きつつ、宮澤賢治という人があまり好きになれなかったこともあって、積極的に解決させようとしないまま、おそらく20年か30年かという長い時間が過ぎてしまった。
 調べてみると、賢治と音楽との関係はずいぶん多くの人によって研究されているらしい。面白そうだと思って買ったのは『宮澤賢治の聴いたクラシック』(小学館、2013年)という本である。文字による研究のみならず、ご丁寧にCDが2枚付いている。書いているのは萩谷由喜子という人だが、音源提供・協力として佐藤泰平、音源提供・監修としてクリストファ・N・野澤という人の名前が書かれている。そして、この本の基礎になっている先行書として佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』(筑摩書房、1995年)が紹介されている。これは驚きだ。佐藤泰平とは、おそらく、私がかつて所属していた仙台宗教音楽合唱団の創設者・初代指揮者である。私は佐々木正利時代になってからのメンバーで、佐藤泰平氏にお会いしたことはない。しかし、なにしろバッハ演奏をもっぱらとする合唱団である。その初代指揮者が、宮沢賢治と音楽との関係を研究していた方だとは思いもよらなかった(本当に同一人物なのかな?)。
 著者は、賢治の遺品、レコード交換会提出のリスト、作品中の言及、他者の証言などから、賢治がどのような音楽を聴いていたのかを割り出し、佐藤、野澤両氏のコレクションから、賢治が聴いていた(もしくは可能性の高い)SPレコードの録音をCDに復刻している。録音されているのは、間違いなく賢治自身も耳にしていた音である。J・パスターナック指揮ビクター・コンサート管弦楽団による「運命」(全曲、1917年録音)やH・プフィッツナー指揮ベルリン新交響楽団による「田園」(同、1923年録音)など、「賢治が聴いていた」ということを抜きにしても、1910年代、20年代の演奏を聴けるというのは、非常に興味深い。
 また、賢治が聴いた初めてのベートーベンということで、交響曲第4番の第2楽章が収録されているのだが、これはヴェルセラ・イタリアン・バンドという吹奏楽団による演奏(1912年録音)で、元々Adagioの曲が、とてもリズミックで快活な楽曲に変化させられている。編曲は今でもよく行われるし、その際、様々な手が加えられることもあるけれど、私たちは、例えばベートーベンの第4番にしても、本来の楽譜・編成に基づいた様々な第4番の演奏を知っている上で、編曲も聴くのである。一方、賢治はこの録音でしか第4番を聴いたことがなかったようだ。その時、賢治の心の中に生まれた第4番という曲のイメージは、おそらく、今の私たちとはまったく違うものだったろう。そんな想像も楽しい。
 賢治が、ストラビンスキーやラフマニノフシベリウスドビュッシーといった同時代の作曲家の曲を耳にしていたというのも驚きだ。CDにはストラビンスキー「火の鳥」(1919年版の組曲の一部。1928年録音)やR・シュトラウス自身の指揮による「死と浄化」(1989年作曲、1926年録音)、ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」(1894年作曲)などが収められているが、このうち、ドビュッシーの録音(1929年、A・ヴォルフ指揮コンセール・ラムルー管弦楽団)は、CD中唯一、賢治の遺品から直接録音されたものである。他の録音も、賢治が聴いていたものと同じ録音であると考証した上で取られたものだが、やはり遺品からの録音というのは感慨深い。
 LPレコードは1950年頃から、CDは1980年代前半から庶民が手にするようになったものなので、20世紀初頭の岩手県で賢治がSPレコードを手にして、ベートーベンや、ましてストラビンスキーなど聴けたわけがない、と私は勝手に思い込んでいた。どうやらそれは偏見だったようだ。解説によれば、レコードの流通状況はかなり細々としたものではあるが、それでも、花巻で入手可能であり、賢治には音楽鑑賞仲間とも言うべき師や友人がいて、レコード交換会を開くなどして互いに融通し合いながら、意外に豊かな音楽生活をしていたらしい。
 CDの中で唯一、賢治が耳にしていなかった録音は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」(ベルリオーズによる編曲版)だ。賢治が死んだ年、1933年に近衛秀麿指揮の新交響楽団(NHK交響楽団の前身)が演奏したものである。著者・萩谷は、賢治が1926年に上京した際、新響の団員からチェロの特訓を受けたことを根拠として、新響の練習も耳にしたはずだ、この録音には賢治が聴いた新響の響きが聴き取れる、と採録の理由を説明している。賢治が新響の練習を耳にしたはずだというのは憶測でしかなく、信頼に値しない話なのではないかと思うが、興味深いのは、そこでチェロを独奏しているのが斉藤秀雄だということである。斉藤は自分自身も指揮者としての活動をしていたが、むしろ、「斉藤メソッド」を開発し、小澤征爾秋山和慶を育てた名指導者として有名である。元々チェリストであったことも知られている。しかし、実際にそのチェロ演奏を聴くことは極めてまれだ。その斉藤がまだ30歳にもならなかった時期に弾いたはつらつとした演奏は印象的だ。
 どの録音も、ザー、パチパチという雑音の奥から音楽が聞こえてくる。雑音は何の邪魔にもならない。ベートーベンの時代からでもまだ100年しか経っていない時代の香りが漂ってくる。同時に、蓄音機のラッパに頭を突っ込むようにして耳を傾けていたという賢治の姿も、目の前に見えるような気がする。そこには、古今東西どんな楽曲でも、わずかなお金で録音が買える今とはまったく違う、音楽のかけがえのなさがあったはずだ。雑音の奥の音楽にいとおしさがこみ上げてくる。