セロ弾きのゴーシュと音楽

 昨日紹介した『宮澤賢治の聴いたクラシック』によると、賢治の弟・清六氏が小学校に入った明治40年ころ、宮澤家には既に蓄音機があったそうである。ただし、両親を始めとして身近な大人たちが義太夫を好んでいたことにより、レコードも全て義太夫関係のものだったらしい。西洋音楽のものはなかった。賢治自身は、盛岡高等農林学校に在籍していた大正5年(1916年)前後に、西洋音楽に接するようになったようだ。・・・と、ここまでは昨日の補足みたいな話。
 さて、「セロ弾きのゴーシュ」(1934年発表)は、映画館所属の楽隊である金星音楽団が「第6交響曲」を演奏するという設定である。「第6交響曲」としか書かれていないが、それがベートーベンの「田園」であるということは、定説になっていると言ってよいであろう(松岡由紀「『銀河鉄道の夜』と『セロ弾きのゴーシュ』 晩年の賢治童話と音楽」(『日本文學68』1987年)など)。
 ここで問題となるのは、当時の花巻に映画館があったかどうか、そこに楽隊が付設されていたかどうか、あった場合はその編成、第6交響曲、もしくは交響曲というものが演奏されたことがあったかどうか、である。
 身の回りで手に入る範囲で、日本映画史に関する本なども見てみたが、それらの問題について最もよく答えを与えてくれたのは、武蔵野美術大学映像学科が出している「イメージライブラリー・ニュース」第19号(2006年11月)というものであった(ネットで閲覧可能)。そこには、久保田桂子なる人物による「無声映画三つの風景」という記事があって、賢治の映画体験に言及している。
 そこにも書かれているが、賢治の弟・清六氏は、『兄のトランク』(ちくま文庫、1991年)の「映画についての断章」の中で、兄・賢治と映画を見に行ったことがあり、それは人気弁士・駒田好洋率いる映画巡業隊による映画小屋でのものだったと証言しているらしい。常設の映画館は、当時の花巻には無かったということだ。しかし、その巡業隊は楽隊を持っていた。映画上映中に演奏していたかどうかは書かれていないが、事前の宣伝パレードではジンタを演奏していた。
 記事には、映画館の楽隊の写真が3枚紹介されている。次の通りだ。

A 明治30年(1897年)頃 神戸:7人(大小の太鼓、ユーフォニウム?2、トランペット2、不明1)
B 大正15年(1926年)頃 北九州:12人?(写真では楽器を持っていない)
C 昭和5年(1930年)頃 岐阜:17人(うち1人は女性。楽器を持っているのは1人だけで、楽器はチェロ)

 また、岩本憲児編著『写真・絵画集成 日本映画の歴史 第1巻』(日本図書センター、1998年)には、錦輝館という映画館の内部を描いた絵が載っていて、楽隊も描かれているのだが、それは6人(大小の太鼓、ユーフォニウム、トランペット、大小のクラリネット)である。
 仮に第6交響楽がベートーベンの「田園」だとした場合、楽譜通りに演奏するためには、弦楽パートを最少の各1名にしたとしても、21人が必要である。しかし、それはかなり無理のある編成なので、コントラバス以外の弦楽器を2名ずつにすると、25人だ。それでも、よほどの名手ぞろいでなければ、25人で「田園」を演奏するのは厳しい。
 写真に写っている人数は、それと比べると非常に少ない。しかも、A以外の写真は、楽器を持っていないため、写っている人達全員が楽士なのかどうかも分からない。私は、当時の映画館の楽隊は6~7人というのが正しく、BやCは楽士以外も写っているのではないか、と想像している。どう考えても、「田園」が演奏できる状態にはない。ちなみに、新交響楽団が設立されたのは1926年である。
 ということは、昨日書いたようなレコードや本による情報を元に、当時の花巻の人達も自然に理解できるような状況設定を考え、賢治は「ゴーシュ」を書いたのだ、ということになる。ただし、賢治のような例外的に先進的な人間ではなくても「交響曲」という言葉を知っていたのでなければ、「ゴーシュ」は書けなかったはずだ。昨日と同じような結論で甚だ申し訳ないのであるが、当時は、私なんかが想像するよりもはるかに豊かな音楽文化(知識にしても録音にしても)が、人々に行き渡っていたに違いない。
 人々はそんな知識をどうやって身に付けたのか。私には想像もつかない。萩谷氏には、『イーハトーブから見上げた夜空』のように、レコードだけでなく、賢治やその他の人々が、どのような音楽書籍を手に取り、どのような写真を目にしていたのかという側面からも考察して欲しかった。