再びヘルベルト・フォン・カラヤン

 もう10年以上前の話になるが、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンについての一文を書いた(→こちら)。学生時代以来、外見ばかり磨き上げたような演奏に思えて好きになれなかったが、いろいろな人が彼について書いた文章を読んだりしているうちに、少し見方が変わってきた、実はカラヤンという人はすごく偉大な人かも知れない、というような話だ。内容もともかく、言い回しが結構気に入っていて、このブログの開設4周年の記事でも、自分自身のお気に入りの記事の一つとして紹介している。カラヤンについてはその時からずっと気になっていた。
 今年のお正月、何かのきっかけで『Maestro,Maestro! Herbert von Karajan』というドキュメンタリー映画(1999年 フランス 監督はパトリシア・プラットナー)の存在を知り、DVDを購入した。カラヤンの生涯を、実映像をたくさん使いながら、身近な人(小澤征爾、アンネ・ゾフィ・ムッター、クリスタ・ルードヴィヒなど)の証言も交えてたどったものである。カラヤンの没後10年目の作品なので、カラヤンが登場する場面は、全てこの映画のための映像ではなく、残されていた映像を利用したものだろう。映画の中のカラヤンは、とても気さくで冗舌だ。自分のカリスマ性(商品価値)を高めるために、自分を孤高の芸術家に見せようなどという気配は微塵もない。
 この作品が、どれだけ正確にカラヤンを捉えているかは知らないが、あまり悪い作品には思えなかった。確かに、演出家としてのカラヤンの評判や、晩年の人間関係におけるトラブルの多くなど、触れられていない問題もあるにはあるが、ナチス入党問題や、ザビーネ・マイヤーのベルリンフィルへの入団を勝手に認めてしまった問題なども避けていない。ナチスへの入党問題については、カラヤン自身が語る映像さえ収められている。マイナス面が網羅されていないと同様に、アーノンクールが驚嘆したようなリハーサルの進行(→こちら)といったプラス面でも触れられていないことがあるわけだから、監督の恣意的な編集というよりは、それらに関する実映像が手に入らなかったか、わずか1時間半という時間的な制約によるようにも思う。
 ただ、やっぱり私が見てみたかったのは、カラヤンのリハーサルだ。周知の通り、カラヤンはほとんど目をつぶったまま本番の指揮をする。指揮ではアイコンタクトが重要だというセオリーに真っ向から反する。当然、リハーサルでは周到にトレーニングをした上で、本番はそのようにいわば演技しているだけのはずだ。しかも、あのアーノンクールが驚嘆したとなればなおさらである。
 映画に登場する人たちは皆、カラヤンの若者を育てようという気持ちの強さや、愛する女性と過ごしたいがために、仮病を使って練習をサボるといった人間的な側面を語る。これらの点については、10年あまり前にも私は、「そういう(=人間として優れた)カラヤンの姿は、やはり彼の音楽からはどうしても見えてこないような気がする。音楽は、カラヤンという人間を内側深くに封じ込めて、外側ばかりが燦然と輝いているようだ。」と書いた。
 昨年、Eテレで、「玉木宏 音楽サスペンス紀行 ベートーベン」という番組が放映された。描かれている内容の真偽を確かめることはできないのだが、イデオロギー的に対立する東西ドイツでどのようにベートーベンが利用されたか、という興味深い考察が行われていた。中に、カラヤンも何度か登場する。カラヤンは、ベートーベンがビジネスになると考え、1963年にベートーベンの交響曲全集を売り出し、商業的な大成功を収めた。番組では、「カラヤン楽聖によって帝王になった」と評する。これだけ見れば、音楽を金や地位のために利用するものとして、眉をひそめたくなるような話だ。
 しかし、商売だけを念頭に置いて演奏し、それが人の心を動かすとも思えない。番組は、「カラヤンは美しい音でなければならないとずっと言い続けていた」というベルリンフィル元団員の言葉を紹介する。これは上に引いた10年前の私の言葉とそれなりに重なり合う。そして、最近思うのは、「美しく、美しく」という強い意識は、作品に対する愛の一つであるに違いない、ということだ。
 ここまで私は、書籍や映像によってカラヤンという人物を考えてきたわけだが、やはり、音楽家は音楽によって価値を評価するしかない。とすれば、どうしても演奏を通して向き合うしかない。今までもR・シュトラウスは好んでいたが、今年に入ってから、ついにベートーヴェン交響曲全集(1963年録音)を買ってしまった。
 なにしろ忙しかったので、時々しか聴けなかったのだが、ほとんど1ヶ月で、第9番以外は一通り聴いた。高めのピッチによる明るく華やかな音で、高校、大学時代に感じたとおり「外見ばかり磨き上げたような」演奏にも思えたが、「とても丁寧に磨き上げた」演奏にも思えた。ベートーベンと言えば、奇数番目の交響曲の方が人気があり、私の好みも明らかにそちらなのだが、カラヤン盤は特に偶数番目の交響曲の美しさが際立っている。「美しい」ということがより一層似合うのが偶数番目の曲だ、ということかも知れない。
 以前、ショルティの振った第5番のつまらなさに言及したことがある(→こちら)。あれほど完璧なアンサンブルで、これほど構造的な曲をつまらなく演奏できるということに驚いたものだが、カラヤンの「美しい」ベートーベンには、そのようなつまらなさも感じない。その要因が、曲に対するカラヤンの愛だ、と言われれば、そうなのか、と納得するしかないような気もする。
 カラヤンが徐々に私の前に魅力的なものとして姿を現してきたのは、凡人には偉大な作品や才能が簡単には見抜けない、ということと関係するのだろうか。ベートーベンを聴きつつ、次はブルックナーかな、などと少し思いかけているところ・・・。いずれまた。