ロマン派の精神・・・リストとワーグナー



 最近、ほとんど「ながら」聴きではあるが、F・リストが編曲したワーグナーというのを繰り返し繰り返し聴いている(バレンボイムの演奏)。飽きない。本来のオーケストラバージョンで聴いているよりも、心地よいような気がする。特に、『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」は絶品。恋する時の身もだえするような情感が、実によく表現されている。

 作曲者がオーケストラを対象として作曲する場合、基本的には、それだけの種類と量の楽器がなければ、自分表現したいものを表現できない、ということである。だから、それをより少ない楽器のために編曲して、物足りないものにならないようにするのは難しい。編曲の歴史を紐解いてみれば、必ずしも、編曲した方がよくなると思って編曲したわけではなく、録音がなかった時代に、身近な所で音楽が楽しめるようにしたとか、作曲者自身の学習のためだったという場合が多い(→過去記事1記事2)。

 リストは、ワーグナーのみならず、ベートーヴェンベルリオーズウェーバーなど、いろいろな人のオーケストラ作品を独奏ピアノ用に編曲している。この人の場合は、その目的がよく分からない。「ピアノの魔術師」として、ピアノという楽器の限界を試そうという意図が中心だったかも知れない。私はリスト編曲の元オーケストラ曲全てを聴いたことがあるわけではないが、ベートーヴェン交響曲よりは、ワーグナーの方がはるかに自然だな、と思う。

 理由を少し考えてみる。「第9」を別にすると、ベートーヴェンよりもワーグナーの方が管弦楽の規模は大きいので、編曲の際の無理は、むしろワーグナーで明瞭になるはずだ。しかし、ワーグナーの方が音楽として自然である。あれこれ考えてみるが、結局のところ、ワーグナーの方が気質としてリストに合っていた、という結論に至る。更に言えば、ロマン派として共通の基盤を持っていてこそ生じた親和性である。

 ロマン派というのは、ドイツ観念論に典型的に見られるような理性偏重主義と合理的精神に対する、ある種の批判として生まれてきた、と私は理解している。したがって、人間の感情や主観を大切にするし、感情の最も根源的で激しいものが男女の愛であるがために、恋愛とその感情を描くことが中心とならざるを得ない。ベートーヴェンの時代以後、約100年間が音楽におけるロマン派の時代と言われる。本来は、個人個人の気質と思想とによって表現活動を行い、それを第三者が勝手にロマン主義的だとか古典主義的だとか評すればいいだけの話で、時代としての枠があるわけではないように思うが、実際には、音楽史を眺めると、時代の精神というものは間違いなく存在する。意識するかしないかに関係なく、人間は環境を離れて生きられないということなのだろう。

 ワーグナーとリストは、共にロマン派の人であり、ベートーヴェンとは違う時代の人であった。ベートーヴェンが過渡期の人であって、ロマン派的要素を併せ持つことは私も知っているし、その評価を肯定もするけれど、こうしてリストが編曲したワーグナーベートーヴェンを比べてみると、やはり違うのだ、と思わされる。

 音楽というのは面白い。非常に抽象性が高いために、論理よりも情感を表現することに好都合であるはずだが、もう一方で、音というものが非常に物理的であり、自然法則に支配されているため、構造的、論理的な表現も可能になる。音楽というものの幅広い表現力は、これら二つの矛盾する性質を合わせ持つことから生まれているだろう。この観点から言えば、ロマン派とは、前者すなわち音楽の持つ抽象性の魅力と特性とを大切にし、うまく発揮させた人たちだと言える。リスト編曲ワーグナーのながら聴きは、まだしばらく続きそうだ。