解釈の余地のあることとないこと(2)



 昨年7月の閣議決定による、自衛の措置としての「武力の行使」三要件の第1番。

「我が国に対する武力攻撃が発生したこと、又は我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること。」

 状況が「明白な危険」のあるものかどうか、その判断は危うい。原則として、自衛隊の派遣そのものが事前に国会の承認を必要とするが、重要影響事態安全確保法を適用すれば、国会による承認は事後でもいいらしいので、政権が「緊急事態だ。国会承認?そんなこと言っている場合じゃないだろ!」と一喝すれば、もうおしまい。歯止めは利かない。それでも、「明白な危険」を問題にしすぎると、事後にしか何も出来ないということになってしまうので、今はあえて触れない。

 私が問題としたいのは、侵害の危機にさらされているものが、国の存立、国民の生命、自由、幸福追求の権利と併記されている点である。なぜなら、これらはずいぶん性質の違うものを含むからである。「国の存立」はそれ以下の三つ以前に危機にさらされる可能性がないだろうから別として、国民の「生命」「自由」「幸福追求の権利」の性質の違いをどう考えるべきだろうか。

 「生命」は絶対的なものである。生きるか死ぬか、解釈の余地はない。しかし、「幸福追求の権利」はそうではない。おそらく「幸福追求の権利」とは、「幸福である権利」のことであって、実際には幸福でなくても、追求することさえ出来ればよい、というものではないだろう。これは「幸福」の解釈次第でいろいろと話が変わってくる。

 今までにもおそらく何度となく書いているが、今の日本は余りにも豊かすぎる。それでも、人間の欲望は止まることを知らない。餓死者が出ることは極めてまれで、仮にそういうことがあったとしても、そうならないための措置を講ずることは可能であり、そのための手段は一応用意されている。そのような例外中の例外を別にすると、国民の大半は贅沢な生活をしていると思う。どこかから、突然ミサイルや銃弾が飛んでくる可能性や、往来で突然刺される可能性も、ゼロと言ってよいレベルだ。つまり、日々生きることには、人類の歴史上まれであるが上にもまれな恵まれた状況にあるのである。これだけで、十二分に「幸福」だと言うことは容易である。それでも、人々の最大の関心事は、景気の回復であり、社会保障の充実だ。そして、「もっと豊かな生活を」と言う。

 環境問題を考えると、今すぐに、生活のレベルを大きく落とす必要があると私は考えている(→参考)。それが、将来、暴れる自然に怯えることなく、「幸福」に生きていくためのやむを得ざる方法であると思うからだ。しかし、ほとんど全ての人はそう考えないらしい。だから、自家用車も飛行機も自販機もコンビニも野放しにされ、その制限のための議論すら始まらないのだ。「幸福」は、「今」と「将来」とに分裂している。

 より豊かな生活を飽くことなく求めるからこそ、石油の確保は至上の命題で、石油の確保が至上の命題だから、ホルムズ海峡を自衛隊の防衛圏から外せないのである。幸福の解釈と欲望の大きさに比例して、自衛隊の活動範囲は広がり、武力行使の必要性と可能性は高まる。

 「生命」はよい。しかし、これほどにあやふやな「幸福」というものを、使い方によっては、逆に国家の存立を脅かしかねない判断の根拠にすることは間違いである。「生命」と「幸福追求権」とを、単純な事例のごとく、知らん顔をして同列に並べておくわけにはいかないのだ。解釈の余地を大きくすれば、政府(権力)の力が増す。権力は、古来、必ず腐敗し横暴になるものだ。政府の権力が増大した時の危険は、外国による侵害の危険よりも大きいだろうと私は思っている。人間の組織は、外圧ではなくて内部崩壊で滅びる。これも「歴史の法則」と言えるのではないだろうか?