解釈の余地のあることとないこと(1)



 10日あまり前の話になるが、「石巻教育を語る会」の役員会(?)に出席した。これは、震災前、学校の教員と一般市民とで、年に1度くらい、教育問題に関する講演会や意見交換会を催していた緩やかな教育団体である。署名や陳情・請願といった実際的な活動に取り組んだこともあったかも知れない。

 震災でメンバーの多くが被災した。中でも、会の代表者であったTさんは、自分の経営する水産加工会社が壊滅的な被害を受けた。とても「教育を語る会をまたやろう」と言える状況ではなくなってしまった。震災から4年が経ち、Tさんの会社も、売り上げこそ震災前の7割に止まっているとは言え、工場や倉庫といった施設は完全に復旧した。このように事情が変わってきたことに加え、「教育を語る会はもうやらないの?」という声が外から聞こえてきたことなどあって、一度集まろうか?という話になったのである。

 会をこのまま消滅させるわけにはいかない、しかし、煩雑な準備はなかなかできない、だったらまずは講演会という話になったところで、私は「ぜひ森達也氏を!」と主張した。森達也とは映像作家であるが、私はこの人の頭の使い方をとても高く評価している。可愛い女の子大好きな私が、ほとんど唯一、極めて積極的な気持ちで会ってみたい、一度直接話を聞いてみたいと思っている中年男(失礼!)が、森達也氏なのである。冷静で、先入観や偏見から自由で、ニュートラルに物事を見つめ、その本質を掘り下げて考えることのできる希有な人物だ(→彼についての過去記事)。実は、彼を仙台・石巻に呼ぶというのは、知る人ぞ知る「2015年平居の公約」なのである。

 驚いたことに、その場にいた誰も森達也の名前を知らなかった。最近(だけでないかも)、『朝日新聞』に登場の機会も多いのに・・・!そして、私の繰り返しの訴えにもかかわらず、森達也は「没」になった。

 ところで、昨日は憲法記念日石巻森達也を呼べなかったショックを紛らわせる目的もあって、久々に森の『日本国憲法』(太田出版、2007年)を読み直した。本来、タイトルは『日本国憲法(1)』とすべきもので、あと3〜5冊くらい出さないと、森達也憲法論は尽くされない感じだが、それはともかく、中に引用されたナチス№2、H・ゲーリングニュルンベルク裁判における発言には、今更ながらに衝撃を受けた。

「国民は戦争を望みません。(中略)(しかし)政策を決めるのはその国の指導者です。(中略)そして国民は常にその指導者の言いなりになるように仕向けられます。国民に向かって、われわれは攻撃されかけているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていることで国を危機に陥れたと非難すればいいのです。このやりかたは、どんな国でも有効です。」

 正に、今の日本の政治そのものではないか?!「どんな国でも」の後に、「どんな時代でも」が付いていれば、それこそ完璧だった。

 今の日本と言えば、自民党が昨年7月に出した「安全保障法制に関するQ&A」というのを、これまた読み直した。公明党自民党との与党協議や、首相の訪米によって、新しい安全保障法成立がいよいよ現実味を帯びてきたからである。非常に多くの大きな問題を含むものだが、ひどく気になったことを、1点だけ書いておく。集団的自衛権行使の要件として、自民党は昭和47年の政府見解を踏まえ、昨年7月に閣議において「新三要件」なるものを決定した。その第1番である。(続く)