政治を語る気になれない理由



 数日前、ある親しい友人から、「最近、平居は大人しいのではないか?政治的問題に関してグチさえ聞くことが少なくなった。ブログの記事だって、日常の些細な出来事に関わるものが増えているようだ。歳のせいか?」と言われた。政治を話題にすることが少なくなったのは、私自身も自覚している。意識的、と言ってもよい。歳を感じることは切ないもので、そういう場面が増えているのは確かだが、この問題に関して言えば、おそらく関係はない。人間が円くなった結果などでも決してない。

 政治に問題が無いわけではない。余りにも当然だが、むしろ問題は増える一方だ。増えるだけではなく、悪質になってもいる。

 昨日のアメリカ議会での演説は、民主党でさえ批判していたとおり、国会に提出前の法案の成立を、他国の議会で時期まで含めて公言するというメチャクチャなものだ。そもそも、安全保障関連法案というものの中身が非常にいかがわしく、法律によって完全に憲法を骨抜きにしてしまう魂胆と見える。今月に入ってからは、大学にも日の丸・君が代を強制する動きが表れた。安保法制を「戦争法案」だと批判した社民党議員に対しては、発言修正を求めた(←これけっこう重要な問題なのだが、私が見た範囲では、『毎日新聞』が社説で問題としていたくらいで、報道は低調だった)。2月には首相が野党議員に対して「日教組は(政治献金を)やってるよ」などとヤジを飛ばした。首相がヤジを飛ばすというのも異常だが、安倍首相が有名な日教組嫌いであることを念頭に置くと、更に嫌らしい響きを帯びてくる。昨年の衆議院議員選挙では、メディアへの圧力と疑われる言動も見られた。沖縄もしくは辺野古問題への一連の対応は、沖縄県民のことを考えても、自然のことを考えても、憤りと悲しみしか感じない。主語は「首相」だったり「自民党」だったりするものの、首相の意向が極めて強く反映されていることは間違いない。

 だが、現在のこれらの動きは、私にとっては想定内である。安倍晋三という人がタカ派で、(その結果として)日教組嫌いで、日の丸君が代靖国問題では積極派であり、自分の意に反する報道をするメディアに圧力をかけようとする傾向があったこと(2006年だったかに、NHK職員が番組の内容に関して安倍から呼びつけられたという事件があった)などは、首相になる以前から分かっていたことである。首相になってからだって、特定秘密保護法制定や集団的自衛権に関する解釈変更、労働条件についての規制緩和残業代ゼロ法案など)、アベノミクスという極めて危険な(目論みどおりの効果が上がらない場合は国家財政がより一層破綻に近付く)経済政策など、少なくとも私の感覚で言えば、まったくデタラメな、大衆の歓心を買うか、目前の利益だけを考えたことばかりをやって来ている。

 しかし、昨年末の衆議院議員選挙では圧勝した。その後の統一地方選挙でも好成績だ。他政党・政治家が不甲斐ないということをいかに割り引いたとしても、人々はまったく無知であるか、安倍政権を積極的に支持しているとしか見えない。それで、昨年の衆院選の後、私は「民主主義とは、やはり、最善の選択をするためのシステムではなく、「みんなで決めたことだから仕方がない」と諦めるためのシステムであると思う」と書いたのである(→本文はこちら)。そしてその後、私の心はこの「諦め」に絶望的なほどに支配されている。これが、政治を語る気になれない理由だ。どうしても、批判の対象は安倍晋三を始めとする自民党ではなく、それを支える国民一般になってしまう。対象が漠然としている上、いわば「身内」なので、甚だものが言いにくい。

 政治家が国民をだましたり欺いたりしているというのは、甘ったれた言い方だ。民主主義とは、面倒くさいシステムであり、国民が努力することを抜きにして健全には維持されない。国民は、果たしてそのことを理解し、真剣な努力をしているか?もちろん、政治家が本当の意味でエリートであるなら、国民にそのような努力を求め、導くはずだが、現在の民衆のレベルによってしか政治家が選ばれない以上、そのような立派な人が政治家の大半を占めることは期待できない。困ったジレンマである。

 何かを言っても、何も変わらないだろうが、何も言わないことは状況を更に悪化させる。だから批判はしなければならない。だが、少なくとも今のところ、その気が起こらない。もしかすると、大衆への諦めのように見えながら、この無気力こそ「歳」の証しであるかもしれない。