心地よきロマン派とお酒

 今日も雨が降ったり止んだり。関東地方で軒並み36℃を超え、37℃を超えたところすらあったという今日、石巻の最高気温は23.5℃だった。半袖半ズボンでは肌寒く、窓を閉め切って1日を過ごした。いったい何なんだろう?

 さて、6日に宮教大に行った時、前夜の飲み過ぎではなはだ調子が悪かった、というようなことを書いた。時間の順序がメチャクチャだが、その件について書いておこう。
 5日の夜は、このブログにもたびたび登場する石巻市内某先生(医師)主催の私的音楽会があった。決して「一流」とは言えないが、20人ほどでプロの演奏を独占し、終演後に某先生選定のいい酒をしこたま呑むのは楽しい。仙台あたりにわざわざ出かけて行き、大きなホールで聴くよりも、音楽にじっくりと向き合えるような気がする。終演後に必ず演奏者と一緒に呑むということもあるのかも知れないが、不思議とあら探しにならず、演奏のいいところを探そうという聴き方になるのも心地よい。
 5日にやって来たのは、崎山美和(ヴァイオリンとヴィオラ)・崎山志保(ピアノ)の姉妹である。曲目は、前半がベートーヴェンで、ヴァイオリンソナタ第8番、ロマンス第2番、ピアノソナタ「悲愴」の第2、第3楽章、後半はシューベルトアルペジオーネソナタ第1楽章、シューマン「森の情景」から3曲、リスト編曲によるシューマンの歌曲「献呈」、シューマンアダージョアレグロであった。
 今回はヴァイオリンとピアノのデュオとだけ聞いて、曲目も知らずに出向いた。入り口でプログラムを書いた紙をもらった時、アルペジオーネソナタがあるのを見て、ヴァイオリンで弾くというのは聞いたことがないな、と思ったのだが、後半、美和さんが手に提げてきたのはヴィオラであった。つまり、この日の前半はヴァイオリンとピアノ、後半はヴィオラとピアノだったのである。
 裸のヴィオラを聴く機会というのは非常に珍しい。ベルリオーズ「イタリアのハロルド」やR・シュトラウスドン・キホーテ」といったオーケストラ曲の独奏楽器として耳にすることはあるし、バッハ「ヨハネ受難曲」のアリアの伴奏楽器(楽譜の指定はヴィオラ・ダモーレ)として登場したりするのを聴くことはあったが、リサイタルはおろか、ヴィオラ協奏曲を聴いたことさえないような気がする(モーツァルト「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏曲」はあるかも・・・)。
 すばらしかった。特にアルペジオーネソナタシューマン/リストの「献呈」(これはピアノ独奏)がよかった。こうなると、宴会の始まりが多少遅くなってもいいから、アルペジオーネは全曲聴かせて欲しかったな、と思った。
 参会者の多くが、私と同様、ヴィオラを聴いたことについてあれこれ言うし、私自身もヴィオラは印象的だったのだが、酒を飲みながら、リストやシューマンピアノ曲のことも思い出しているうちに、私が感動したのはヴィオラではなくて、ロマン派なのではないか?と思うようになってきた。
 今更言うまでもなく、ロマン派というのは、19世紀を中心とするヨーロッパの文芸思潮だ。古典派に対するアンチテーゼという傾向があるために、時代思潮のように見えるが、実際には時代とは関係のない空想的、自由主義的、耽美的な指向であって、性格的にロマン派と相性のいい人、悪い人というのが存在するように思えてならない(→ロマン派の精神)。
 例えば、フルトヴェングラーは濃厚なロマン主義的傾向を持つ指揮者・作曲家だと言われる。チェリビダッケも、その壮絶なブルックナー演奏が有名だが、では次は?と言えば、明らかにシューマン、そしてブラームスである。やはりロマン主義的資質のなせる技であろう。
 崎山姉妹には、おそらくロマン主義的な資質というものがあって、それ故に、シューベルトシューマン、リストが心地よく響いたのだと思う。同時に、プログラムの後半をそれらの作曲家の作品で埋めたという所に、彼女たち自身がロマン派に心の波長が一致することをはっきりと自覚していることが表れているのではないか?
 とまあ、そんなことをお話ししたり、縁あって東京からお出でになっていた2人の老医師と馬が合ったことなどから、宴会がお開きになった後も居座ってしまった。某先生が用意しておいてくれていた「久保田 純米大吟醸 30周年記念酒」なるものがあまりにも美味だったものだから、「もう一杯だけいいじゃないですか」などと言われるままに、理性は「明日は講習を受けるので・・・」と口先ばかりで、つい杯を差し出してしまう。よく冷えた吟醸酒は強烈。翌朝6時半の電車で仙台に行かなければならないにもかかわらず、あっという間に日付が変わってしまい、家にたどり着いた時は1時になっていた。
 居眠りせずにちゃんと講習は受けたので、文句はナシ・・・ということで、御免。