二宮金次郎の本


 先日(→こちら)に引き続き、『石巻かほく』「つつじ野」による話である。今日は、別に悪い話ではない。

 3月15日の「つつじ野」は、「湊小学校を応援する東京の会」(通称:東京サポート)代表・松田隆夫なる人物によるもので、「歩き出した二宮像」というタイトルがついている。「湊小学校」とは、石巻市内にある被災した小学校で、我が家から徒歩20分くらいの所にある。改修工事を経て、昨年春から元の校舎で授業を再開している。

 それによれば、湊小学校にあった二宮金次郎像は、津波でほんの少し流されたが、本を持った手が折れてなくなっていた。後日、本の部分を誰かが見つけ出してくれたので、それを見ると、本に字が彫ってある。「一家仁一国興仁、一家譲一国興譲、一人貪戻一国作乱、其機如此」という『大学』の一節(伝第九章)であった。「家に仁愛があれば、国全体が仁愛という点で盛んになり、家に謙譲の徳があれば、国全体が謙譲の徳において盛んになる。一方、君主一人が貪欲で邪であれば、国全体も貪欲で邪となり、乱れてしまう。治にせよ乱にせよ、そのメカニズムはこのようなものだ。」という意味である(松田氏も意味を説明しているが、字数制限の影響もあってか、やや正確さを欠くので、島田虔次の訳注(『中国古典選6』朝日新聞社、1978年)に基づいて書いた)。全国にある二宮金次郎像は、すべて同じ、すなわち、本にこれらの文字が刻んである、という。

 私が驚いたのは、どう見ても、小学生が下から見上げる石像(たいていはコンクリート製)なのに、上から見下ろさないと読めない所に、わざわざ字を彫っているということであり、どこか一つの会社で大量生産したということでもないらしいのに、これ以外の文言は彫られていない、ということについてであった。特に後者は問題だ。二宮金次郎という人と、『大学』もしくはその第九章との関係はどうなっているのであろうか。

 杉山隆敏氏のHP「二宮金次郎像」によれば、日本で最初の二宮金次郎像は、明治43年、彫金家・岡崎雪声によって作られた銅像らしいが、小学校に設置された最初のものは、大正13年(1924年)、彫刻家・藤原利平によって作られた愛知県豊橋市立前芝小学校のコンクリート像である。しかし、本に文字が彫られていることについての言及はない。

 内村鑑三『代表的日本人』(岩波文庫)の二宮伝には、学問をしようと思い立った金次郎が、最初に手にした書物が『大学』であったと書かれている。Wikipediaによれば、その源は富田高慶『報徳記』(1856年)らしいが、私は未見である。しかし、『大学』の中で、第九章が金次郎にとってどのような特別な意味を持つのかについての記述はない。その他、いろいろ探してはみたが、どうも謎なのである(答えを期待した方、ごめんなさい)。

 ところで、昨日は「遠足」であった。私は3年生にまぜてもらい、学校から徒歩約2時間、標高281mの京が森という山に行った。頂上が広場になっていて、万石浦渡波井内を見下ろすことができる。往路は沢田から旧道を上り、復路は尾根伝いに宮城県ライフル射撃場のある峠に下り、沼津経由で学校に戻った。

 宮城県ライフル射撃場は、昔の金山小学校(1981年閉校)跡地に建てられており、その横に、金山小学校関係者の頌徳碑やら胸像やらが残されている。その中には、金山小学校の二宮金次郎像(コンクリート製)も含まれる。ふと、よじ登って本の文面を確かめてみよう、という気がおこった。石巻小学校の二宮像にそんなことしたら怒られそうだが、ここならいいだろう、と思ったのである。

 果たして・・・、残念ながら何も書いてなかった。ということは、「つつじ野」が仮に間違いでなかったとしても、全国の二宮像の全てで、本に同じ文言が書いてあるのではなく、本に文字の書いてあるものについては同じ文言だ、文字の書かれていない本もあるのだ、ということになる。文字の書かれた本は、どれくらいの割合で存在するのだろうか?

 やはり、疑問というのは解決を目指すと増えてくるものである。