えりものおじさん

 先週金曜日の夜から、北海道に行っていた。今日まで4日間の旅行、と見えるが、3泊2日。金曜日、仕事が終わってから車で仙台港に行き、19時40分発のフェリーに乗り、翌朝11時に苫小牧に着いて、バスで札幌に着いたのが午後2時。日曜は、午後4時の電車に乗って新千歳空港に行き、バスに乗り換えて苫小牧港に着き、19時発のフェリーに乗って、今日は10時に仙台に着いた。3月1日に卒業式があって、少し仕事の谷間なので、今日は休みを取ってあった。仙台港からそのまま帰宅。
 世の中では、今月26日に予定される北海道新幹線の開通がさも素晴らしいことのように話題になっているが、ほぼ同時に、最後の客車寝台特急カシオペア」も急行「はまなす」も廃止になって、私のような「旅行は線」、移動も含めて全てが旅行、という人間は、いよいよ移動の手段が無いと嘆息せざるを得ない状況が生じている。幸い、北海道についてはフェリーという素晴らしい手段がある。世の中の移動手段がどんどん速いだけで無味乾燥なものになり、旅行の意欲も減退傾向だが、フェリーのおかげで、まだ北海道は行く気になれる。しかも、今はオフシーズンということもあり、早割で28日前までに予約をすると、信じられないくらい安い。今回は2等で、往復7700円!!信じられますか?(参考までに、往路は「きたかみ」なので3600円、復路は「きそ」なので4100円。船の質の違いである。多少高くても、「きそ」(「いしかり」でも同じ)の方が圧倒的にきれいで快適。)
 さて、なぜ札幌に行ったか?
 1月下旬のある日、私はSさんという女性からの手紙を受け取った。見た瞬間、誰だか分からなかった。10秒くらい考えてから、思い至った。「えりものおじさん」の娘だ。私は、大学3年生(正しくは、3年目の2年生)であった33年前に、えりも町の漁家に住み込みで、1ヶ月半ばかり昆布漁の手伝いをしていたことがあった(→その時の話)。その時の親方であるKさんは、私が人生において出会った人の中で、ベスト5に入る影響を受けた人物である。人間として尊敬すべきであると同時に、親しみも持てた。わずか2回だけだが、その後もえりもを訪ねたことがある。最後に会ったのは15年ほど前だ。その時、Kさんは私がKさんの家で働いていた当時高3であった娘さんについて、「いい人と結婚して札幌の○○に住んでいる」と嬉しそうに話をしていた。姓が何と変わったかは聞いた記憶が無いが、名前は覚えていたし、○○という地名も知っている地名だったので記憶に残った。手紙の差出人の名前と住所を見ながら、それらが10秒くらいで結び付いてきたのである。
 私はその瞬間、「亡くなったかな?」と思った。今年の年賀状が来ないことは気になっていたし、なにしろ80歳を過ぎている。ドキドキしながら封を切った。大意は次のようであった。
「父は、12月15日に右脳出血で入院した。幸い出血の場所も程度もよかったので、手術をすることもなく落ち着いたが、左足に麻痺が残った。今は、札幌近くの専門病院に転院してリハビリに励んでいる。」
 これを読み終えた時、私は既に会いに行くと決めていた。以前から気になっていたが、なにしろえりもは遠いので、なかなか足を運べない。札幌なら気軽に行ける、と思ったのだ。手紙には軽症と書いてあるが、高齢であることもあり、この機を逃せばもう会えないかも知れない、とも思った。
 娘さんから入院先を教えてもらい、土曜日の午後、私は札幌駅から電車とバスを乗り継いで、石狩市にある病院を訪ねた。Kさんは元気だった。約15年ぶりだが、ほとんど変わったという感じもせず、もちろん、街の中でばったり会ってもKさんと分かる。ベッドから身軽に起き上がって、話にもよどみがない。夕食までの1時間半、いろいろなお話をした。
 私は、自分の父を始めとして、何人もの脳溢血の患者と接したことがあるが、麻痺が足だけだという人を初めて見た。普通は右脳がやられれば、左手も左足も麻痺する。軽いか重いかは麻痺の程度と、言葉に障害が残るかどうかだ。しかし、Kさんは本当に足だけだった。
 Kさんは、奥さんを亡くしてから約25年、一人暮らしを続けてきた。えりもの自宅に帰っても寂しいし、大変だろうと思うが、それでも、Kさんはえりもに帰りたいと何度も言った。私が船で来たと言うと、「おれは船が大好きだ。おれも船に乗って平居さんとこさ行きてぇなぁ」と言う。
 私が「にいちゃん」から「平居さん」に変わったのはいつからだっただろう?昔、飛行機の切符を送るから来ませんか?と誘ったことがあったが、その時は、夏は昆布で忙しい、「にいちゃん」(だったか「平居さん」だったか?)も仕事があるから大変だろうと、私のことも気遣い、実現しなかった。Kさんが、自分から、私の所に行きたい、と言ったのは初めてだ。こういった些細な会話と変化とが、妙に私の感傷を刺激した。
 今回Kさんを訪ねる前、私は、人生においてKさんに会うのが当然最後になると思っていた。寂しいけれど、それは仕方のない事である。また、遅かれ早かれ、誰に対しても、そういう瞬間というのは必ず来るものなので、あまり考えても仕方がない。だが、Kさんがあまりにも元気だったので、話をしながら、私はそんな意識を失ってしまっていた。その結果、夕食が始まる時、私は、身近な人を石巻の日赤病院にでも見舞ったような感覚で、あっさりと辞去してきてしまった。しかし、バスに乗り、地下鉄に乗り換えて宿に戻る道すがら、やっぱりもう一度会えるかどうかは分からない、という思いが再び兆してきた。そして、病院になんだかとても大きな忘れ物をしてきたような気になって、心落ち着かなくなってきたのであった。