「コリオラン」と静寂、または残響

 芥川也寸志『音楽の基礎』(岩波新書、1971年)冒頭に、次のような記述がある。

「作曲家は自分の書いたある旋律が気にいらないとき、ただちにそれを消し去ってしまうだろう。書いた音を消し去るということは、とりも直さずふたたび静寂に戻るということであり、その行為は、もとの静寂のほうがより美しいことを、みずから認めた結果にほかならない。」

 高校時代にこの一節を読んで衝撃を受けた私は、その後、音楽を聞く時には、常にそれを静寂との対比で意識せずにはいられない。作曲家だけではない。録音で音楽を聴いている時に、聴き手が曲の途中で音を止めることがあるとすれば、それはとりも直さず静寂の美しさに軍配を挙げたということなのだ。いずれにしても、音楽というのは、あえて静寂の美に対抗しようという果敢な試みである。
 さて、4月27日の記事の続きである。問題とするのは、予告通り1曲目、「コリオラン」序曲だ。
 トヨタのアンサンブルが「コリオラン」を演奏を始めた。冒頭からぞくぞくするほどいい音だ。が、第3小節1拍目の強烈な和音が響いたとき、「あ、違う!」と思った。ホールの問題である。残響が足りないのだ。和音はあっという間に力を失い、曲全体が妙にスカスカな物足りない音楽に思われ始めた。
 この曲は、弦楽器がフォルテで延々2小節音を引っ張った後で、全楽器によるフォルティッシモの和音がそれを断ち切り、1小節と4分の3拍という長い休符がある。休符はもちろん静寂なのだが、直前の和音が強烈な上、ホールには必ず残響というものがあるので、聴衆は「余韻」に耳を澄ますことを余儀なくされる。ベートーヴェンは間違いなく、その効果を意識して曲を書いただろう。今まであまり意識したことがなかったが、スカスカの「コリオラン」に当惑することで、私は、この曲の命が休符の静寂にあることに目を見開かされた。おそらく、長い休符で有名なブルックナーは、静寂そのものの価値を私たちに突き付けたのであり、「コリオラン」とは静寂の用い方が違う。
 そう言えば、2008年12月10日、東北大学に萩ホールが完成した時、聴衆の入った状態でホールの残響がどのようになるかの実験をした。実験に協力するという名目でホールに入れてもらい、タダで漆原啓子と野平一郎とによる「クロイツェルソナタ」他を聴いて、すっかりいい気分になった。残響測定と演奏とに先立ち、元日本音響学会会長なる東北大学の某教授が短い講演をした。大先生は、講演の冒頭で、ホールの残響とはどのようなものであるか、ということを説明するために、例としてある曲の響きを測定し記録したグラフを示したが、その時、記録されていたのは正に「コリオラン」冒頭の大休止を含む数小節であった。残響というものを考える上で、やはり格好の曲なのだ。
 今年3月2日、ウィーンフィルの元コンサートマスター・ダニエル・ゲーデが家族(奥様はピアニスト、ご子息がチェリスト)とともに石巻に来て、我が家から徒歩10分の中央公民館で、無料のコンサートを開いてくれた。200人あまり入る体育館のようなスペースだったのだが、そのステージが客席よりかなり高い。そのこともあってか、衝撃的と言ってよいほどに音が響かなかった。これほどの名手が演奏しても、響かない会場で聴く音楽とはなんとも味気ないものだ、と痛感して帰って来た。
 各地のコンサートホールの残響がどれくらいかというのは、気温や聴衆の数によって変化するし、ホールの特性というものがあって、一つのホールの中ならどこでも同じように聞こえるというものではないので、公表していない場合が多い。その中で、永田音響設計という有名な会社は、その会社が設計にかかわったホールについて、データを公表している。しかも、「満席で500Hzの音を出した時」と条件をそろえて測定しているのもよい。それによれば、例えば、フェスティバルホールが1.8秒、兵庫県立芸術文化センター・大ホール、ミューザ川崎シンフォニーホール、札幌コンサートホールKitaraが2.0秒、サントリーホール東京芸術劇場大ホールが2.1秒と、日本を代表するようなコンサートホールは、ほとんど全て1.8〜2.1秒である。一方、イズミティは永田音響設計の作品ではないが、珍しくデータが公表されていて、それによれば、客席80%収容時(永田より条件が有利)で1.4秒だ。なるほど、約0.5秒の差は大きいわけだ。
 音楽の背後にある静寂やホールの響きというものが、音楽を聴く上でも、演奏家が演奏する上でも、非常に重要であることは知っていたつもりだったが、「コリオラン」はそれを再認識させてくれた。おそらく、彼らのアンサンブルの響きがふくよかで心地よいものであったために、なおさら意識されたのであろう。残響は、演奏よりもむしろ曲の一部である。
 音楽は、静寂と美を競う。だが、静寂か音楽か、ゼロか100か、ではない。音が静寂へと吸い込まれていく時に、静寂が持続している時よりも、かえって私たちは静寂を意識する。ベートーヴェンという巨人は、静寂を音楽の前提であると意識するに止まらず、うまく利用さえした、ということだろう。