アホくさ!スマホ・ケータイ教室

 昨日は、全校生徒を対象に「スマホ・ケータイ教室」なるものが開かれた。講師はNTTdocomoの職員である。
 約45分間、最初から最後まで、スマホやケータイ=不用意な情報の流出がいかに危険なものか、ということが延々と語られた。これは本当に滑稽!売れれば売れるほどありがたい企業の方が、商品のデメリットばかりを宣伝する。常識的に考えて、あり得ない話だ。もちろんそこには、いくら危険性を強調しても、それによって売り上げが下がることは絶対にない、だとしたら、変に言い訳めいたことを話して反感を買うよりも、危険(=事実)を強調しておいた方がいい、それは実際にスマホ・ケータイを起点としてユーザーが犯罪に巻き込まれたりした時に、会社を免罪し、会社を守ることになるはずだ、という意識と思惑とがあるに違いない。これはこれでひどい話だ。
 私なんかは、アホだなぁ、と思う。会社が、ではない。本当にくだらないことのために、毎月数千円以上のお金を払って、なおかつリスクを背負い込んでいる人々が、である。なるほど、そういう使い方なら価値もあるな、などと私が思うことはほとんどない。少なくとも、生徒については皆無だ。親が、「こんなもの必要ない」と一言言えば済むだけの話である。「みんな持っている」など、何の根拠にもならない。一見有効な利用方法でも、まじめに考えてみればくだらないという事例を紹介したこともある(→こちら)。
 講話を聞きながら、私の頭の中をぐるぐる回り始めたのは、『方丈記』のあちこちである。「もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず、何に付けてか執を留めん」「ただ仮りの庵のみ、のどけくしておそれなし」・・・。文章全体としてのテーマは「無常」だ。どうせ何を持ってもやがてはなくなるものなのだ、そんな物に心を煩わせるのはバカバカしい、最初から持たないに越したことはない、というのが鴨長明の一貫した主張である、というのは決して間違いではないだろう。しかし、私には、物を持たないことはなんと清々しいことか、という爽快感こそが長明の実感であると身に迫ってくる。ケータイを捨てて早4年(→捨てた時の話)。長明の境地が少しは分かる。
 もちろん、スマホもケータイも持たないとは言え、立派な家(=あくまでも鴨長明の草庵との比較)に住み、車もテレビも冷蔵庫も電子レンジもパソコンもあって、現にこんな文章も光ファイバーなるものを通して全世界に送る生活をしていながら、スマホ・ケータイだけを特別に悪者視するのはいかがなものか?という批判は正しい。私も確かに、それら多くの物の恩恵を受ける一方で、ストレスをも増やしている。それらも全て捨ててしまえば・・・?それができないために、スマホを手放せない人の気持ちも少しは分かる。
 だから、おそらく、スマホやケータイを手放せない人と私の違いというのは、あるとすれば、それらを持っているかいないかではない。便利であることが「善」であるとはゆめゆめ思わず、便利に対して常に懐疑的で、できるだけ便利なものを持つことについて抑制的でありたい、便利の落とし穴に落ち込まないようにしたい、という意識を持っているかどうかなのだ、と思う。
 それにしても、やっぱり、スマホ・ケータイはあまりにもくだらない。