「仕方がない」よ

 高校生、いや、社会全体がスマホ中毒であることは、今更言うまでもない。多くの人が絶えずスマホの画面をのぞき込んでいるのを見ながら、常に不愉快を感じている私は、今月、KDDIが不具合を起こした時には、「ざまみろ」と、ほんの少しながらいい気分でいた。あんなものが1日か2日不具合を起こしたくらいで、大騒ぎになる世の中の方が絶対におかしいのだ。ま、このブログを熱心に読んで下さっている方は、私がそんな感じ方、考え方をするくらいは「入門編」と言ってよいほど容易に分かることだろう。
 過去にも、スマホ・携帯電話のトラブルというのはあって、そのたびに、今私が書いたようなこと、つまり、便利なものに依存した社会の脆弱さ、というようなことが各所から指摘されていたので、今回も、KDDIの責任を問う声の10分の1くらいは出てくると思っていたのだが、案外目にしなかった。
 そうしたところ、7月24日、朝日新聞の「社説余滴」という欄に、黒沢大陸という人が「便利過ぎな社会で失うもの」という記事を書いているのが目に入った。読んでみると、黒沢氏が言う「便利過ぎな社会で失うもの」とは、主に「お任せします」という信頼関係であると分かる。氏は、携帯電話やメールが普及する前は、連絡を取り合うことが今ほど容易ではないので、「お任せします」「お任せ下さい」と言い合える人間関係が多かった、と指摘する。
 私はそれを否定しない。だが、それよりも、もっと強く感じるのは、「仕方がない」という諦めの喪失だ。スマホ・携帯電話を持たない私などは、誰かと連絡が付けられない、情報をリアルタイムで入手できない、ということについて、すぐに「ま、仕方がないさ」とあきらめる。ところが、スマホ中毒の人には、これがなかなか難しいことらしいのだ。すぐに連絡を付けられない、欲しいものがすぐに見付けられない(注文、入手できない)、スポーツの試合の途中経過が分からない、などというのは猛烈にイライラとストレスの溜まる状態であって、断じて「仕方ない」ことではないらしい。そして、それが通信会社のミスで引き起こされたとなると、「許せない」ということになる。
 機械なんて、トラブルの可能性をゼロにすることなんて出来るわけがないではないか。私は依存する方が絶対に悪いと思う。
 先日、学校の部活動で、日頃活動に参加していない某君に、どうしても連絡が必要になった。私にはよく分からないシステムだが、彼らはグループラインというもので結びついていて、それによって情報のやり取りが行われているらしい。部長である生徒が連絡が付けられないと言うから、事情を尋ねてみれば、そのラインで連絡を取ろうとしても反応がないのだと言う。某君は、部活動に来ていないだけであって、学校に来ていないのではない。私は一喝した。「ばかもの!!なんで教室に行かないのだ?スマホなんかいじっていないで、直接教室に行って呼んでこい!!!!」。これは私にとって恐ろしいことである。そして、そのような感覚に支配されているからこそ、ちょっとしたシステムトラブルが社会全体の混乱を生むことになるのだ。
 スマホの必要性の大半は、必要だと思わされている、あるいは必要にさせられているだけであって、本当に必要なのではない、と私は思っている。以前も書いたことだが(→こちら。かなり長い記事で、3分の2くらい読まないと出て来ないけど・・・)、連絡を取るのに必要だからスマホを持つのではなく、スマホを持つから連絡が必要になる。それも間違いないように思う。そんな私の話を理解する人はいない。まぁ、せいぜい、スマホ依存の生活をして、こんな便利で楽しいものを持たない平居は気の毒だ、もしくはバカだ、と思っていればいいさ。