終末へ向けての暴走

 今週の火曜日、政府が「骨太方針」の骨子案なるものを経済財政諮問会議に提示した。基本的テーマは「新型コロナウイルス感染症の克服とポストコロナの経済社会の展望」で、4つある「新たな成長の源泉」の一つとして「官民挙げたデジタル化の加速」というのがあるらしい。例によって、まったく思慮というものを感じない。極めて短絡的に「デジタル」だ。少し立ち止まってその弊害を考えてみれば、そうそう安易に口に出せるものではない。まったく無思慮、無批判に、「デジタル」の新しい響きに心奪われ、デジタル化=進化と考え、それさえあれば何でも実現する、弊害などあろうわけがない、と錯覚しているようにしか思えない。本当に脳天気な「信仰」だ。
 私のように、スマホはおろか、コンピューターもインターネットもなかった時代に青少年期を過ごし、様々な学習をしてきた人間が、今にして文明の利器のお世話になるのはまだよい。物心ついた時からデジタル機器に囲まれ、それを通して学習活動をすれば、どうしても現実を正しく認識し、それに基づいて社会観、人間観を形成できるとは思えない。画面の中を通過していく情報を見ながら、しっかりとした哲学的思考が可能になるとも思えない。
 今年ベストセラーになった『スマホ脳』の著者は、スマホを現代のドラッグだと言っている。そんなことは、指摘されなくても分かっていることで、私もたぶん、何度かそんなことを書いている。一度手に入れてしまった技術は、少しでも目先に利益をもたらす限り、それにどんな害があろうとも使わずにはいられない。ほんのわずかなメリットに心奪われ、その後生まれてくる大きなデメリットには考えが至らない。それが人間というものの哀しい性質であることを、一体毎年何度思い知らされなければならないことか。
 スマホも手放せない、自動車も手放せない、ペットボトルも手放せない、それでいて核兵器は廃絶できるなどということがあろうとは思えない。同じことである。
 デジタルは特にたちが悪い。人間を内側から蝕むからである。核兵器がいかに危険で、一度使えば数十万人の命を奪うとは言っても、人間の精神が健全であれば、そのようなことにはならない。核兵器が多くの人の命を奪うのは、人間が使うからである。危ないのは核兵器ではなく、人間だ。だから、人間を内側から蝕むのは最も悪いことなのである。
 今日の朝日新聞に、文科相のインタビュー記事があった。教科書を完全デジタル化するかどうかで、文科相は「それはしない、しばらくは紙とデジタルを併用する」と明言した。これは少し救われる思いがした。しかし、しょせん「しばらくは」である。
 今の学校では「楽しく、分かりやすい」授業が求められている。私は非常に危険だと常に思っている。それは迎合趣味であると言ってもよいだろう。「楽しく、分かりやすく」なければ勉強する気にならないなどと言うのは、勉強する気がないのである。本当に何かを学びたいという強い意欲があれば、どんなに劣悪な環境でも、どんな教材からでも、人間は学ぶのである。
 今の学校では、よく映像を見せ、プリントを配る。その結果、プリントがなければ学べない、映像がなければ不満を言う生徒は確実に増えている。プリントにしても、映像にしても、そこには制作者の主観が必ず入っている。誰かが解釈したものを通してしか学べなければ、ニュートラルな立場で是非を判断する訓練もできないだろう。
 とにかく、便利であればあるほど、親切であればあるほど、学びの本質は失われて行く。学ぶ側の意欲に問題があっても、デジタル機器があの手この手で学ぶ側を喜ばせ、勉強したような気分にさせてくれる。そんなことを当たり前だと思ってしまった人間は、もはや機器が無ければ何も学ぶことができない。それを脆弱と言わずに何と言おうか? しかも、楽で便利なものは、その程度の価値のものしか与えてくれない。費やしたエネルギーと得られる価値は常に等しい。
 少なくとも私は、価値あるものを手に入れるには、絶対にそれに見合った苦労が必要だ、楽と便利を信用しない、という旧弊な人間だ。その私にとって、脳天気なデジタル化推進は、人間の終末に向かって暴走をしているとしか思えないほどに、ただただ危うい。