「天声人語」の書き写し

(5月26日付け「学年主任だより№7」より②)


天声人語を書き写すことの意味】

 普通科「総合的探求の時間(総探)」で、「天声人語」の書き写しをしている。ビジネス科もLHRでやってみたはずだ。「こんなことやって何になるの?」という声も少し聞こえてくるので、私なりのコメントをしておこう。
 これは、総探の担当者である某先生の発案なのだが、学年の先生方から異論は出ていないし、常に考えることが人とは逆になる私も肯定的だ。理由は・・・
「体と頭は連動している。書き写すことは、言葉を学ぶ上でのとてもいい方法で、書く速さは考えるのにも最適(読むのは速すぎる)だ。」
ということだ。作家の中には、自分が気に入っている文章を書き写しながら、創作の方法を学んだという人も少なくない。私は、「天声人語」だけではなく、教科書もせっせと書き写しをすればいい、と思っているくらいだ。
 しかも、「天声人語」は長さが適当で、平均して内容的にも優れている(日によって多少の質的違いはある)。これくらいの文章を短時間で正確に読んで、テーマについて考えることができれば、主権者とになる資格があると認めてよいような気がする。そんな物差しになる文章だ。
 何も考えずに、先生が「写せ」と言うから写しているという人と、内容や表現についてじっくり考えながら写している人とでは、得るものに大きな差があることは言うまでもない(何をする時でも意識は大切)。おそらく、前者のような人が「こんなことやって何になるの?」と言っていることだろう。
(新聞のコラムは「天声人語」だけがいいわけではない。「華北春秋」でも「余録」でも「編集手帳」でもいいから、日常的に目を通すとよい。)


裏面:2012年2月4日、朝日新聞「『天声人語』今日も、朝日新聞に 『いま』を紡ぐ筆遣い」を貼り付け。
平居コメント:新聞1面の3分の2にも及ぶ大きな特集記事の一部。今回省略した場所には、「天声人語」というコラム名が「天に声あり、人をして語らしむ(天≒神が人を通して語らせているもの=天声人語は天の声)」という言葉に由来すると書いてある。2人の論説委員が、新聞を発行する全ての日(=年に353日)、きっちり603文字で書いている、ということは、総探で書き写しを始めた時に説明されたはずだ。読者を飽きさせないためには、同じようなことを繰り返し書くわけにはいかない。バランス良く、様々なことを話題にする必要がある。しかも、「天声人語」は何百万人もの人が目を通す。政治的にデリケートな話題も少なくないので、共感、感動だけでなく、多くの異論・批判も寄せられるはずだ。そのプレッシャーに耐えて、毎日書き続けるというのは並の知力と精神力ではできない作業だ。私なんかは、想像しただけで気が遠くなってくる。敬意を払いながら読まないわけには行かない。