絶対にないことなどない



 昨日、橋下大阪市長の「民主主義」が、いかに単純浅はかなものであるか、ということを書いたところ、今日の「天声人語」がほとんど同じようなことを書いていた。少し気分がいい。

 その前、5月14日に新しい安全保障法案が閣議決定された後、それに触れておこうと思いながら日を過ごしているうちに、書こうと思っていたことの核心部分を、「天声人語」に書かれてしまった。こちらは負け(笑)である。それは5月16日のもので、首相が新安全保障法案について記者会見した際、「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にありません」と語った部分だ。「天声人語」は「こうも易々と「絶対」という語を用いるものかと、言葉の軽さに驚いた」とコメントしている。

 私もほとんど同じようなことを思ったが、背景その他を少し説明しておこう。

 私が「絶対に」を聞いて顔をしかめるのは、安倍晋三なる人物が首相になって以来、「絶対に」ありえないはずのことが、次々と現実になっているからである。その最たるものは、今回の安全保障法案が作られる前提となった、集団的自衛権の容認見解(解釈変更)であろう。やりたいことは、どんなに破廉恥な方法を使っても、やってしまう。彼の前に「絶対」などということがあるわけがない。それこそ、絶対に信用できないのである。

 「絶対」の問題からははずれるし、今回の会見ではさすがに聞かれなかったが、日頃から首相は、「日本はアメリカの同盟国だから〜」というような表現をよく使う。私の感覚では、同盟とは何かの目的を達成するために結ぶものであって、必要がなければ解消できるものである。何かにつけて「同盟国だから〜」と言い、そこを動かしようのない出発点とする論理は、順序関係が逆転している。同盟国であることを前提にしてしまうと、アメリカが何をしても、それに加担していくしかなくなってしまう(自民党公明党の関係はそうなりつつありますね)。今回の法案は、正にそのためのものに見える。だいたい、アメリカが日本に駐留し、その周辺で軍事行動を行っていることだって、日本を守るのはタテマエもしくは手段に過ぎず、ホンネあるいは本当の目的はアメリカの世界支配であること、大抵の人が知っている(思っている)ことであろう。

 政府は、今回の安全保障法案を「平和安全法制」と呼ぶそうである。社民党福島瑞穂氏がこの法案を「戦争法案」と呼んだのは4月1日。首相は「レッテルを貼って議論を矮小化していくことは断じて甘受できない」と反発して、発言と議事録の修正を求めた(『毎日』の4月22日社説で知った)。「戦争法案」はレッテル貼りだが、「平和安全法制」はレッテル貼りではない、という理屈はまったく奇怪である。この命名問題は、閣議決定翌日5月15日に『朝日』が「文化・文芸」欄で取り上げていたが、その書き方は、ひどく穏便だ。しかし、その問題は非常に嫌らしい。私なんかは、その軽薄さに「虫酸が走る」ような感覚を覚える。

 もっとも、そんなレッテル貼りでだませると思うくらい国民は舐められ、現実に、舐められる実績があるのだから困る。

 大阪都構想が白紙に戻り、維新の会の重鎮たちが次々と政治家を辞めると言ったり、役職を辞任すると言ったりしている。求心力が低下して、維新の会は弱体化が懸念されている。こういう時、卑しい政治屋は、理念ではなく損得を考え、自分が得をできる所に入り込もうとする。私が恐れるのは、維新の会が分裂を始めた瞬間に、そこから自民党に合流する面々が現れることで、自民党一党独裁体制が益々強固になることだ。残念なことだが、結局の所、それもまた国民の質の反映であるだろう。