超超単純「民主主義」



 昨夜、10時頃にテレビをつけたところ、大阪都実現の是非を問う住民投票の開票率は20%くらいで、反対派が若干リードしていた。部外者ながらもひどく気になっていた選挙なので、そのまま見ていたところ、開票が進むにつれて、賛成票が伸びて逆転し、一時は賛成が反対を1万近く上回った。「ああ、もうダメだ!」と思い、しばらくテレビを消し、11時に再びつけたときには、開票率95%くらい。ごく僅差に迫ってはいるが、まだ賛成が反対を上回っている、このままでは賛成派が勝つ可能性が高い・・・はずなのに、反対派勝利が確定したということで、既に自民党幹部の記者会見が始まっていた。この辺の仕組みは理解できない。

 大阪が都であろうが府であろうが、宮城県民である私にはどうでもいいようなことである。だが、あの市長である(→この人についての過去記事1過去記事2)。賛成が勝てば、自分の全てが信任を得たような態度をとり、得意満面意気揚々、異論は叩きつぶし、更に自民党改憲問題で急接近して、他人事では済まなくなるだろう、と気が重かった。だから、私は、表面上いかなる意思表示もしてこなかったが、手に汗握るような思いで、反対派に声援を送っていたのである。

 23:10から始まった、大阪府知事と市長の記者会見を見た。記者の問題意識は、もっぱら市長の進退問題にあるようだった。結果が出る前から、市長は「大阪都」が実現しなかったら、自分は政治家を引退すると公言していたからだ。この点に関して、会見での発言にいささかも曖昧さはなかった。市長の任期が切れると同時に引退だそうである。

 「よみうりテレビ」だったかの記者が、「負けたとは言っても、70万の賛成票があったわけだし、市長に対するその他いろいろな期待も持っている人がいるだろう。それでも引退ですか?」みたいな質問をした。この常識的な問いと、それに対する市長の単純明快な答えの中に、市長の問題が集約されていると私は感じた。

 それは、民主主義があまりにも単純に矮小化されてしまっている、ということである。もともと、この人は「選挙至上主義」と言われていた。選挙で勝ったらやりたい放題、負けた側がどんな思いになろうが関係なし。悔しかったら選挙で勝ってみろ。そんな思想・姿勢は至る所に見られた。

 選挙で勝っても、彼に投票した人は投票者の一部でしかない。投票した人だって公約の全てに賛成したわけでも、白紙委任したわけでもない。だから、決めざるを得ないことについては決めなければならないが、何でも自分のやりたいようにやっていいわけではない。「民」主主義と言うからには、自分に投票した人以外を含む、できるだけ多くの「民」が納得し、幸せになれる道を模索すべきなのに、そのような配慮は微塵も感じられない。市長は、その辺がまず分かっていない。加えて、自分を正義の味方に見せるために、公務員(特に教員?)をうまく敵に仕立て上げ、大衆の歓心を買うという暗い手法を使う。

 これらから見えてくるのは、恐ろしく単純な二項対立の思考だ。ゼロか百か、白か黒か。だから、大阪を巡る様々な問題を解決するための手段の一つでしかないはずの「大阪都構想」が否決(しかも僅差!)されたことだけで、政界引退となるわけだ。政治家が何か一つの判断に政治生命を賭けるというのは、決しておかしなことではないが、「大阪都構想」が目的ではなく手段であるべきこと、しかも唯一絶対の手段とは言えないことを考えると、この引退は甚だ無責任であり、理解できない。

 私は彼が政界を引退することは非常に歓迎するけれど、彼が政治家としてひときわ目に付く存在であり、昨夜の記者会見でも、「民主主義はすばらしい」という言葉をやたらと繰り返していたことから、世の中がますます「民主主義」を誤解するようになったら嫌だなぁ、という気持ちも強い。彼が考えているような単純な二項対立の「民主主義」は、すばらしくも何ともない、むしろ少数派にとっては凶暴な悪なのだ。

 学校でも、主体的に考える力を養うといってディベートが行われたり、小論文指導で賛成か反対かを軸に考えさせたり、ということが行われている。社会は複雑で混迷しており、「分かりにくい」のが当然だし、世の中には答えのない問題の方が多い。だが、そのことに漠然と不安を感じる人々や、世の中が分かりにくいのは自分の頭が悪いか、それを「分かりやすく」説明してくれる人がいないからだと誤解している人は、「分かりやすさ」を希求する。その希求にはそもそも無理があるのだが、当人はそんなことには気付かない。学校はその期待に応えようとして、大阪市長のような思考パターンの人間を、図らずも育てようとしてはいるまいか?反省を迫られているように思う。