志布志事件の恐怖・・・マスコミは権力を監視せよ



 2003年に、鹿児島県の県議選で公職選挙法違反に問われ、2007年に無罪が確定した志布志事件について、捜査の違法性に関して元被告が起こした、損害賠償請求の民事裁判の判決が昨日あり、元被告(今回の原告)が勝訴した。地裁判決ではあるが、約6000万円の損害賠償を認めた判決は立派である。

 私はこの事件を、昨年6月7日と7月12日の『朝日新聞』「サ・コラム」欄(大久保真紀編集委員執筆)で知った。恐怖と怒りとが強く湧き起こってきた。恐怖とは、無理矢理に罪をでっち上げようとする、検察もしくは公権力に対する恐怖である。怒りは、もちろん、そこから自然に生まれてくる。

 7月12日記事によれば、当事者の一人である藤山さんに対する任意の取り調べは140時間を超え、逮捕後、身柄拘束は185日、取り調べは538時間に及んだという。更に恐ろしいのは、刑事事件の判決が出る4ヶ月前、『朝日』が鹿児島県版で捜査の問題点を指摘する記事を7回にわたって掲載したところ、内部情報を提供してくれた捜査関係者から、「尾行がついています。微罪でも引っ張られます」という電話があったということだ(6月7日記事)。正当な方法で取材をし、疑問に思ったことを記事にしただけで、尾行がつくというのは、恐ろしいことではないだろうか?

 「微罪逮捕」というのは、警察がしばしば使う嫌らしい手法だ。「悪」と睨んだ人間の「悪」の核心に触れられない場合、ほとんど口実と言ってよいほどの微罪で逮捕して、その後、取り調べの中で「悪」の核心を絞り出そうとする手法である。どこかのビルの駐車場にいたというだけで、「建造物侵入」なる罪で逮捕されたオウム真理教関係者の件などを思い浮かべられると、イメージしやすいかと思う。この場合は、『朝日』が検察のやっていることにケチを付けた、目障りで生意気だ、焼きを入れてやろうか、ということであろう。

 以前から、私も何度か書いているが(→村木事件PC遠隔操作事件)、警察も含めて、権力などというものを信用してはいけないと思う。検察だって、記憶に新しく事例として明瞭なところでは、2010年に厚生労働省のキャリア官僚であった村木厚子さんが、虚偽公文書作成・行使の罪に問われた際、検事が証拠改竄をしてまで立件しようとしていた冤罪事件であったことが明らかになった事例がある。昨年再審が決定した袴田事件だって、似たようなものだ。冤罪といまだに認められてはいないが、怪しいものまで含めると、相当数に上るであろう。私のブログにたびたび登場する森達也の『A』(角川文庫、2002年)には、警察官が、信じられないほどデタラメな理由で、暴力的に、あるオウム真理教信者を逮捕する場面が、彼の目前の出来事としてリアルに描かれている。

 「警察が「事件の構図」を描き、強引に認めさせる取り調べ手法は「たたき割り」と言われる。もし私が藤山さんと同じ立場だったら、と思うとゾッとする。連日、小さな取調室で朝から晩まで「お前がやった」「みなが言っている」と机をたたいてガンガン責め立てられたら――。やっぱり「自白」してしまうかもしれない。」(7月12日記事)。

 やられるほうはたまったものではない。だが、これを読んでいて思うのは、やる方も大変だろう、ということだ。いろいろな人が入れ替わり立ち替わりやるにしても、よほど強いモチベーションがなければ、こんな作業には耐えられないだろう。彼らのモチベーションとは何なのか?残念ながら、6000万円の損害賠償を認めながら、裁判は、なぜ警察がこんなでっち上げをしようとしたのか、を解明しなかった。そこに目をつぶれば、志布志事件のような事例は今後も生まれ続ける。

 私はやはり、人間は全て基本的に利己的なのだと思う。社会正義のためではなく、自分自身の利益のために行動するというのが基本なのだろう。事件を作り上げることが、自分自身の出世栄達のために有利になる、次の異動でいい所に動ける、いや、そこまであからさまに利益に直結していなくても、事件を完成させることで、正義感に酔うことができる、上司や同僚から感心されたり褒めてもらえたりするだけでも、「自分は仕事の出来ない男だ」などとしょぼくれているよりは余程いい。村木厚子さん事件の時、証拠改竄をした検事は、エリートコースにいて、その路線を突き進むための実績を作る必要があったことが指摘されていた。警察官も検事も、平凡な人間なのだ。

 だからこそ、結局、そのような「人間」によってしか行使されない公権力は、厳重に監視される必要があるのだ。時に、いかにも反社会的な極悪人がいて、それを警察が捕まえ、検事が訴えを起こして社会的制裁を科すことがあったとしても、それによって彼らを正義の味方と能天気に信じてはいけないのである。そのためにこそ、マスコミは力を発揮しなければならないのだ。志布志事件は、マスコミの真価が問われる事例であった。

 事件が起こった当初、事件の内容に疑問を持ち、取材を続けたのは『朝日』くらいだったらしい。「一般的には捜査権力が「事実」として起訴した事件に真っ向から疑問を呈することは極めて難しい。しかも、判決前の「冤罪」報道だ。社内外から「大丈夫か」という声があがったが、私たちは突き進んだ。捜査関係者との接触は困難を極め、取材の空振りや無駄も数知れなかった。」(6月7日記事)。そんな記者にとって、昨日の判決は他人事ではない、万感胸に迫るものだったはずである。私たちは、当時鹿児島にいて、体を張って取材をしていた『朝日』の記者たちを、今改めて顕彰すべきである。

 そのような10年越しの志布志事件との関わりの結果として、今朝の『朝日』は第1面のトップ記事、『毎日』は第1面の2番記事だったが、全国最大手の『読売』は、社会面に多少のスペースを取っただけだった(他面に判決要旨あり)。この事件を大々的に報道しない(できない?)新聞はカスだな。