オウム処刑の意味

 オウム真理教関係の死刑囚13人全員の執行が終わった。平成のうちにとか、東京オリンピックに影響が及ばないようにとか、同じ事件による死刑囚の執行は同時が原則だとか、この時期に13人もの執行が行われたことについては、いろいろなことが言われている。
 私が思っていることを書いてくれた記事にお目にかかっていないので(見落としもあり得る)、少し書いておく。
 私は今回の執行を、安倍政権の人気回復策だと見ているのだ。え?なぜ死刑の執行が人気回復策なの?むしろ政権に悪いイメージを与えて、人気を落とすことになるのでは?と考える人は、不幸にして「まともな人」である。私と同じく、この世を生きていて疲れる人であるに違いない(笑)。
 なにしろ、政府による世論調査によれば、死刑という刑罰を容認する人は1975年の56.9%を境に増え続け、2004年以降は80%を超えているのである。先進国を自称しながら死刑を存続させているとはけしからんと、海外から批判を浴びようが、世界では既に106ヶ国が死刑制度を廃止したと言おうが、日本人の死刑容認論は根強い。そんな状況の中で、特に40代以上の年配者、つまりはオウム真理教が数々の事件を起こしていた時の記憶をしっかりと持っている年代層にとって、いわば悪のシンボルとも言えるオウム関係者を処刑することは、政権を正義の味方に見せることになる。それを実行力、毅然とした態度だと誤解して、頼もしいと感じるという人もいるだろう。国民の愚昧がよく見えていて、悪知恵が働くことにかけて無比の安倍政権は、その辺をよく見極めて執行に踏み切った、ということだ。
 不思議なことに、世の中には人々がエキサイトしやすい問題としにくい問題があるのだが、死刑存続の是非は、典型的なエキサイトしやすい問題である。たとえ銃殺や斬首のような流血の死刑ではなくても、死というのは人を興奮させるものなのだろう。かつて私が死刑について書いた時、私のブログにしては珍しく、批判気味のコメントが寄せられたりもした(→2014年2月1日記事)。だがやっぱり、死刑についての私の考えは2014年から変わっていない。私は死刑容認(肯定)論の背後には、日本人独特の極めて脳天気な権力への信頼(=服従、鈍感、無批判)があると思っている。そうでなければ、えん罪であった時に取り返しのつかない刑罰を容認するわけがない。
 オウム真理教事件を解明するための重要人物たちを殺してしまったことにより、犯行の理由や経緯が、今後いま以上に明らかになることはなくなってしまったことを惜しむ意見は、ジャーナリストのみならず、被害者やその家族からも出ている。全くその通りだ。同時に、これほど事件の全容が曖昧模糊としている状況で、死刑かどうかに関係なく、判決なるものを下せるというのも驚きだ。
 もちろん、取り調べでの黙秘は許されるが、法廷で口を開かなければ、審理の進めようがない。長過ぎる裁判は、社会的な負担にもなる。説明も弁明もしないのは、検察の言うとおりだ、どんな判決が出ても文句はない、という意思表示だという意見もあり得るだろう。だが、オウム真理教の問題は、社会全体のゆがみを反映しているという意味で重大な問題だ。ゆがんでいるのは教団だけではない。ファシズム的に彼らを追求し非難する社会もである。全員が沈黙していたわけではないし、再審請求も10人から出ていた。彼らを生かしておくことのデメリットの小ささを考えると、死刑の執行はなんとも惜しい。
 余談が長くなって主題が見えにくくなったので、確認する。今回の死刑執行は、安倍政権の人気回復策である。理屈もなにもない。だまされてはいけない。