権力がすること

 3~5月のコロナ休校の余波で、冬休みも短縮になり、今日がようやく2020年の授業納め。授業が終わらないと年末という感じがせず、今日授業が終わって6日後には大晦日となると、ずいぶん切羽詰まった感じがする。ずいぶんドタバタの生活をしてきて、家のことも何もしないままに25日になってしまったので、なんとか御用納めの28日だけは休みを取ろうと、今日机の周りの片付けも含めて頑張り、なんとか28日学校に行かなくてもいいようにできた(つもり)。さて・・・


(12月15日付け「学年だより№74」より①)


 国の来年度予算案が固まった。なんと106兆円余りの支出で、そのうち40%に当たる43兆円余りが国債(借金)なのだそうだ。新型コロナウィルスの流行という予想外の事態が発生し、臨時の支出が増えたという事情はあったにせよ、今年は1年で112兆円(過去の最高額の2倍以上!!)もの国債が発行された。国の借金はこれで1000兆円をはるかに超える(=増加のペースが速すぎて正確な数字を知るのが難しい)。
 総額を別にして、「43」とか「112」というと、あまり大きな数に見えないかも知れないが、1兆円とは10,000億円のことである。億という単位は、私たち一般市民のレベルだと、生涯賃金(一生涯に得る収入の総額=2億円前後)くらいでしか目にすることのない巨大な数字だ。それを1万倍してやっと「兆」。
 借金は国民1人当たり1000万円にもなる(←赤ん坊も老人も含めての「1人当たり」だょ!)。それを返済するのは、主に諸君のような若い世代。本当にそれを返す覚悟ある?ただ、政治に無関心でいると、この金額は今後も増え続ける。さて、どうする・・・?諸君も来年は主権者となる。


裏面:12月6日付け河北新報より「免田栄さん死去」を貼り付け。単なる訃報ではなく、「評伝」込みの大きな記事。
平居コメント:無実の罪に問われる(やっていない罪をやったとされる)ことを「冤罪」と言う。生きているうちに無罪を勝ち取れてよかった、と果たして言ってよいものかどうか?
 免田さんが身柄を拘束されていたのは23歳から58歳までの34年あまりだ。そのうち31年間は死刑囚として、執行に怯えながらの日々を過ごした。過酷な環境の中で、青春と働き盛りの時間の全てを失ったことになる。いくら罪が晴らされても、いくら多額の補償金をもらったとしても、失われた日々は取り返せない。
 免田さんが犯人になったのは、警察の、免田さんを犯人にしよう(=警察にとっての解決)という過酷な取り調べの中で、虚偽でも「自白」をせざるを得なくなった結果らしい。権力の恐ろしさと人を疑うことの難しさ、を思う。
 死刑は犯罪の抑止力として有効だというのが、日本が死刑制度を持つ理由の中心だ。一方、世界的には死刑を廃止する国が主流だ。その理由は
・残虐である。
・人間(この場合は警察官や検事、裁判官)がミスを犯す可能性をゼロではない。しかも、死刑は執行してしまうと取り返しがつかない。
・罪を償わせるにしても再犯を防止するにしても、終身刑(一生刑務所から出さない。今の日本には制度として存在しない)があれば十分だ。
といったことだ。そもそも、死刑が犯罪の抑止力になり得るのか、という議論もある。
 日本で、死刑制度について議論をしようとすると、なぜか感情的になりがちだが、さて、諸君はどう考えるか?冷静に。