学校内で鍵をかける

 今朝起きると、我が家から見える石巻湾に、奇っ怪な船が停泊しているのが見えた。なんだか、複雑な機械のようなものが船のサイドを取り囲んでいて、要塞のように見える。ブリッジがどこにあるかさえ分からない。例の「Marine Traffic」というサイト(→これについての記事)で見てみると漁船で、「KAIYOUMARU30」と書かれているが、写真が添付されていない。おそらく「第30開洋丸」か「海洋丸」かどちらかだろうと思い、それをキーワードに画像検索をしてみると、前者が正解で、イカ釣り漁船であると分かった。「清福丸ブログ」というブログの2015年6月29日記事に、この船の見学記があって、間近で撮った写真や多少の解説があるので、少し詳しく知ることができる。それを見ると、集魚灯やら自動イカ釣り機が両サイドにびっしりと並んでいるので、数キロ離れた我が家からは要塞のように見えたようだ。イカ釣り漁船というものを見たことがなかったわけではないのだが、こんなに仰々しい船だっけと、ずいぶん驚いた次第。さて・・・


(12月15日付け「学年だより№74」より②)


【まずまず立派・・・後期第1回成績について】

(前半の記事省略)
〈オマケ〉
 定期考査で「頑張った」と言われる場合、それはあくまでも今回の考査の範囲についてである。一方、私が授業で強く思うのは、以前勉強したことの定着率の悪さだ。古典の授業をしていて、既に何十回となく目にしたはずの助動詞(打ち消し、過去、完了など)について尋ねた時に、あわてて文法書を開くのを見ると、そのことを特に強く感じる。と同時に、蓄積がなく、常にゼロから始まる勉強って、つらくてつまらないだろうなぁ、と同情する。勉強を楽しいと思うためには、蓄積ができていくことが必要で、それでこそバラバラの知識が総合的となり、考えるための材料となるのだ。
 では、蓄積を作るためにはどうすればいいのか?そのために大切なのは・・・

① その場で点数がとれればいい、ではなくて、知識を蓄積していこうという意識(意識=気持ちは何事においても常に大切だね)を持つ、
② 「復習」を繰り返す、だ。

(11月23日付け毎日新聞和田秀樹氏へのインタビュー記事の一部=復習の重要性を説く部分を貼り付け)上の新聞記事は、最近偶然目に止まったものだが、別に受験の専門家でなくても語れる当たり前のことだ。受験勉強に関する話だからと言って、大学を受験しない人には関係ないという話でもない。まずは、今年学んだことを冬休みに復習することから始めてみようか・・・?

 


【鍵のある学校、ない学校】

 先日、普通科集会で、盗難があったから各自貴重品はロッカーで管理せよ、という話をした。話をしながら、気分はよくなかった。
 昔々、まだ私が今以上に(笑)若かった頃、生活指導の担当をしていた時に、盗難が何件か立て続けに発生した。当時、教室に鍵を掛けるという発想はなかったが、私はあえて「移動教室の時には鍵を掛けさせてください」と担任にお願いをした。すると、ある年配の先生が「何考えてんだ!?学校で教室に鍵を掛けるなんてとんでもねえな」と激怒した。
 鍵を掛けることが当たり前という今の学校を当たり前だと思っている諸君には理解できない話だろう(「当たり前」は必ずしも「当たり前」ではないのだよ)。当時は、私も同様だった。
 鍵は「不信」の表現だ。学校(本当は社会も)は基本的に人を信じることを前提に成り立つ世界であり、それを教える場所だ。鍵を掛けると、人が信用できないという気持ちが外面化される。不信は不信を生む。教室にも、本当は職員室の考査問題保管庫にさえ、鍵なんてない方がいい。少なくとも、盗難があったから鍵を掛けるというだけではなく、鍵のない世界を目指すという気持ちを持っていたいものだ。
 私は最近になって、その「激怒」した先生の思いが分かるような気がする