美しき老人の姿

 先週の水曜日が高校入試で、今日までひたすら採点をしていた。あみだくじで分担を決める時、不幸にして「小説」を引いてしまった。小説はぬらりくらりとしていてとらえどころがなく、生徒の作文力の問題もあって、とにかく判断に困る場合が多いのである。案の定、他の人たちが続々と採点を終える中、小説担当者3人が、最後の最後まで呻吟することになってしまった。「疲労困憊」、「精根尽き果てた」という言葉が大げさには思われない。
 しかも、どこかで採点ミスとやらが発覚するたびに、ミスを防ぐための「対策」というものが増えるので、答案1枚当たりで、私が教員になった頃の2倍以上のエネルギーを費やすようになっていると思う。肺炎対策と同様、費用対効果(労力対効果?)を考えた時に、果たして今のやり方がいいのかどうか疑問だ。
 話は全く変わる。
 私は今年、国語だけではなく、1クラス2時間だけ、「社会と情報」という授業も持っていた。パソコン操作やICTに関する授業なのだが、実習の割合が高く、実習の時には生徒の作業を個別にサポートする必要があることから、教員が2人で担当することになっている。主となるのは情報科の教員で、それにいろいろな教科の教員がアシスタントとして入る形だ。私はそのアシスタント(T2とも言う)だ。
 2月の授業は、パワーポイント(パワポ)の使い方だった。パワポを使い、「私の好きな○○」というテーマで4枚くらいのスライドを作って、2分間で発表するというものだ。準備に3時間、発表に2時間。
 生徒の選んだテーマは多岐にわたるのだが、女子生徒にはタレントやミュージシャンを取り上げた生徒が目についた。もちろん私なんかは全然知らない、20歳前後の、いかにもイケメンといった感じの青年達だ。今時珍しいくらい清楚で明るくて素直、妻にしたいような女の子がずらり勢揃いしているのに、彼女たちが、私には何がいいのか全然分からないような少し軽くて派手な感じのアイドルを取り上げ、熱を込めて思い入れを語るのを聞くと、なんだかひどくがっかりする(笑)。
 特に予定のなかった先週の土曜日、ビデオレコーダーのハードディスク内に溜まっている録画を整理した。その際、先々週だったかに放送されたヘルベルト・ブロムシュテッド指揮NHK交響楽団第1926回定期演奏会(昨年11月22日)の録画を見た。ブロムシュテッドは92歳。たいへん気高く美しい。すらりとした長身、つややかな白髪ということもあるが、おそらくそういう問題だけではなく、半世紀をはるかに超えて芸術に精進し、高い境地に達した人物の持つ気高さなのだ。
 コンサートのプログラムが終わった後、2時間番組の余白に、過去の映像が放送されることも多いのだが、3~40年前のブロムシュテッドなんて、美しいとも格好いいとも思わない(音楽の価値はまた別。あくまでも外見の問題)。こういう言い方をしては申し訳ないが、どこか爬虫類的な印象さえ受ける。今のブロムシュテッドの方が、はるかに魅力的だ。こんな老人になりたい。心からそう思う。
 私自身が年を取ったから、というのではない。思えば、私自身が高校生だった頃、やはり今と同様に、年を取った芸術家、作家、学者といった人々の風貌にこそ「美」を感じていた。少なくとも、いわゆるアイドルと言われるような若い女の子に心引かれることがなかったのは間違いがない(女性に興味がなかったわけではない=笑)。長い年月にわたって、利益(主に地位と金)ではなく、普遍的な価値を追求し続けた人間からは、それに見合った美が滲み出てくるものだ。それは、芸術家や作家、学者だけではない。どんな職業に就いている人でも、利益ではなく、本当にいい仕事をし、人の幸せに貢献しようという意識で仕事をしている人であれば同様であろう。
 さて、老芸術家と若きアイドル、それらの持つ美の質的な違いは、学校教育によって生徒に教える、もしくは気付かせるべきものなのだろうか?ただの好き嫌いの問題なのだろうか?そんなことに少し悩む。