コロナウィルス問題その後(2)

 「Go to travelキャンペーン」だそうである。相次いで発表された世論調査によれば少なくとも3分の2、多いところでは8割近くが「反対」だそうである。当たり前だ。政府は批判を受けて、場当たり的に「東京除外」を決めたけれど、首都圏で東京だけを除外してもダメだし、大阪、京都でも相当数の感染者が出ている。感染症対策が過剰だという批判的立場の私としては、必要な移動は認めるにしても、わざわざ日本国内を引っかき回す必要もあるまいに、と思う。
 だが、一方で、私は国民の身勝手さにも憤りを感じる。キャンペーンを当てにして旅行の予約をした人は、世論調査で「賛成」の意思表示をした人だけなのだろうか?それならいいのだが、どうも世論調査では「反対」に一票を投じつつ、実施される以上恩恵に与らなければと旅行代理店に駆けつける、という人が相当数いるのではないか?という気がする。政府によって禁止されなければ、それは「よい」ということ、という倫理観は危険である。このキャンペーンが悪いと思うなら、たとえ政府が強行しても、それに乗らなければよいのだ。
 ところで、一昨日、私は今のコロナ対応についてずいぶん批判的なことを書いた。それは決して間違ったことを言っているとは思わないが、ネット上に飛び交う意見を見ていると、例えば、「これで死者が出た時、一体誰が責任取るんだよ」のような意見は珍しくない。あぁ、これを言われたらどうしようもないんだよなぁ、と思う。
 例えば、学校が過剰としか思えないような、専門家が見ても異様な対策を取り、学校本来の教育的価値を大きく減じているとする。それは将来へ向けて非常に大きなダメージを生む。だが、仮にその学校から感染者が出た場合、たとえそれが滑稽な対策であったとしても、これだけの対策をしていました、と主張できることは重要である。また、仮に学校がクラスターとなり、生徒が重症化する可能性は低いとしても、ウィルスを家に持ち帰って祖父母に感染し、誰かが死んだとする。対策に少しでも甘さがあったとなれば、人を殺したと言われかねない。そういう時に、学校の対応を批判する人というのは、たいていとても感情的で、自分の正義漢に酔いしれているから、冷静な議論など成り立たないし、まして反論など通用しない。するとやはり学校は、単に感染者を出さないというだけでなく、感染者が出た時に、これだけのことをやって来たんですと主張するために、過剰であるが上にも過剰な対策を取るしかない。
 こんな事情が分かっていると、今の学校の決定をあながち否定してばかりもいられない。私が独裁的な校長だったとしてどうするか?と問われれば、確かに難しいのだ。対策を緩めれば、校内から感染者が出た時の事後対応の面倒さは想像を絶する。それに怯えるのはバカバカしいと思いつつ、現実に起こり得ることだけに考えないわけにもいかない。こうして世の中は萎縮し、悪のスパイラルに落ち込んでいく。
 また、何かの措置を徹底させることは分かりやすいが、適度に手を抜くというのは「目安」もしくは「基準」がないから難しい。特に、目に見えない新しいウィルスの場合、どうすればどうなるという見通しが立てにくいからなおさらだ。
 人間は基準があると分かりやすいし、充実感を求める本能もあるので、ただひたすら善悪を考えることなく、その基準に従って頑張ってしまうという性質がある。それは仕事の動機として一般的で、「生徒のため」は後付けのようにさえ思える時がある。スポーツがすぐに加熱しがちであるのも、世の中には、進学、就職、資格取得などの実績を競って無理なことをしている学校がたくさんあるのも同様である。
 どんなことにでも「人間」の性質が反映される。そして、「人間」は不完全なものである。