美しき歴史都市・松阪


 3月4日、みんなで英虞湾一周の遊覧船に乗った後、私は一人松阪に向かった。本当は、全員で松阪に行き、松阪牛を食べに行くグループと、私と一緒に「伊勢うどん」を食べて本居記念館や松阪城に行くグループに分かれる予定だったのだが、なんとなく、各自いろいろと行きたい所が出て来たため、松阪を訪ねたのは私だけ、ということになってしまった。

 昨日も登場した私の父は、松阪工業高校という学校を卒業していて(入学は旧制中学校である三重県立工業学校、卒業は新制)、松阪の町のことはいろいろと耳にする機会があった。その都合で、松阪には、大学時代だったかに一度行ったことがあった。しかし、その時は時間が十分に取れず、本居記念館のすぐ隣にある松阪城趾も見なければ、鈴屋(本居宣長旧邸)がもともと在った場所も訪ねないままになっていたのが気になっていた。改めて本居記念館と鈴屋を見たいという気持ちもあった。

 駅でもらった地図で、松阪工業高校の方角に「同心町」という時代がかった地名を見付けたので、そこを通ることにする。後で触れる「御城番屋敷」と同様、槙の生け垣が美しい落ち着いたたたずまいの町だ。「原田二郎旧宅」というものを見付け、立ち寄る。嘉永2年(1849年)に松阪で生まれ、30歳にして横浜第七十四国立銀行の頭取となり、自分の財産をもとに原田積善会という慈善団体を作った地元の名士らしい。頭取となった後の原田が、一時帰郷の際に造作をいじり、自ら住んでいたらしいが、質素な中にも凜とした雰囲気の漂う昔ながらの日本家屋で、美しかった。

 松阪工業高校へ行く。正門を入って左手に赤い壁の木造校舎がある。三重県立工業学校が明治35年に開校した際、製図室として建てられ、今まで残っている。松阪工業高校の歴史を象徴する建物である。確か、父の元に届いていた同窓会報だったか、名簿だったかが『赤壁』と名付けられていた。三国志とは何の関係もない「赤壁」である。

 昔も目にした建物ではあったが、今回は正門に「赤壁校舎の見物を希望する方は事務室まで声をかけて下さい」というような掲示が出ていた。せっかくなので見せてもらおうと、事務室に行くと、すぐに鍵を開けてくれた。武道場といった大きさの建物で、中は二つの部屋に分かれている。きれいに掃除がなされ、多少の展示があった。北側の部屋は、今でも会議室として使っているそうである。出入り口脇には、「近代化産業遺産 平成20年 経済産業省」というプレートが取り付けられていた。

 再び正門を出ると、松阪城との間には「御城番屋敷」(国指定重要文化財)という長屋の武家屋敷が残っている。槙の垣根が美しく整然と刈り込まれていて、こざっぱりとした風情を漂わせているが、観光地然とはしておらず、今でも人が生活しているのがいい。

 松阪城大手門から左に少し行くと本居宣長記念館、そのすぐ上、松阪城の「隠居丸」という所に、移築されてきた鈴屋がある。昔、初めてここに来た時、記念館の中に、本居宣長の著作のものすごい数の版木が保存されているのを見て圧倒された記憶があるが、今回、そこは公開されていなかった。宣長旧邸は入ることができるものの、「鈴屋」と呼ばれる宣長の書斎(2階)にだけは上ることができない。外からのぞき込めるように多少の工夫はされているが、これは少々残念だった。

 私には、本居宣長の学問的業績の価値がよく分かっているとは言えない。だが、私が心の底からすごいと思うのは、彼の学問の広さとそれを実現させた情熱、ストイックな生活である。何しろ、彼には「医師」という本業があって、余暇に学問をしていたのである。しかも、当時、情報の入手は決して容易ではなかっただろう。辞書や工具書の類いもほとんどなく、江戸や京の学者との連絡・交流もままならない状態で、地方都市に居ながら、どうしてこれだけの仕事ができたものか、と思う。賀茂真淵との往復書簡(通信教育)はつとに有名だが、北海道から宮崎まで、全国に約450人いたという門人と、近代的な郵便制度がない中、何日かかるのか分からない書状で結び付きながら、互いの学問を深めていったということは、想像を絶する作業である。偉大と言えば、彼の長男・本居春庭もなかなかの人である。宣長による英才教育を受け、学問の才能を見せたにも関わらず、32歳で失明する。ところがこの後、妹・美濃の手を借りながら、日本語文法の研究に画期的な成果を残した。記念館で、『新版 本居宣長の不思議』という所蔵品の図録を買った。書名は俗だが、印刷もきれいで、編集も分かりやすく、めっぽう面白い。帰りの飛行機の中で夢中になって読んでしまった。

 今回、私が最も感動したのは松阪城である。建物は何一つ残っていないが、いかにも城跡といった風情に満ちている。しかも、私が特に気に入ったのは、どこでも自由に歩けるにも関わらず、墜落防止の手すりのようなものがごく一部(二の丸跡)にしか設置されていない、ということであった。立て札で注意は促してあるが、あとは自己責任、ということである。そのような付属品の無さが、古びた城跡の雰囲気を守っているのだろう。国の史跡であり、「日本の100名城」にも指定されている。聞く所によれば、1982年に天守閣再建に関する論争が起こったが、結局、再建はしないことになったそうである。なんと賢明な判断だったか、と思う。立派な石垣以外に何もなく、それでも城跡としての風格を漂わせ、時の流れを人々に印象づけている。もっとゆっくり、どこかに座ってぼんやり静かに本でも読んでいたかった。

 2〜3時間でいろいろな歴史的価値のある文物に触れることができて、町の風景としても美しい。松阪はやはり時折足を運んで損のない町だと、改めて思った。


(補)有名な話、本居宣長には墓がふたつある。ひとつは、駅の近くにある樹敬寺にあるもので、これは本居家の墓というべき性格のものである。私は、以前訪ねたことがあるが、今回は同心町を経由した都合で立ち寄れなかった。何の変哲も無い小さな墓で、よほどの思い入れがなければ、訪ねて面白い場所ではない。もうひとつは、郊外、妙楽寺にあるもので、宣長の遺言に従って作られた個人的な墓である。この墓のある森は、現在「松阪ちとせの森」という市民向けの森林公園として整備されている。私は、以前に松阪を訪れた時とは別の機会に、父の車で行ったことがある。小林秀雄の『本居宣長』冒頭でも詳細に取り上げられている。いわば宣長の生き様を象徴する墓で、それを読んでから行くと興味深い場所だ。