短歌における定型性(補)

 先週東京に行った時(→その時の記事)、行きの新幹線では、岡崎先生の『歌で革命に挑んだ男』を読み直し、帰りの「ひたち」では、岩澤謙輔『短歌よ定型に還れ!』(夏目書房、2000年)という本を読んでいた。特に復路。何にも邪魔されない4時間半はとても快適で楽しい時間だ。それも「ぜいたく」のうちであった。
 後者を、私は勤務先の図書館で見つけた。私はかつて、「短歌の定型性について」という一文をこのブログに書いたことがあって(→こちら=自分でもけっこう気に入っている文章です)、短歌の形式問題に多少の関心を持っていたため、その本が目に止まったのだ。書架から手に取った時、著者の名前に見覚えがあるような気がした。間もなく、記憶がはっきりしてきて、石巻に住んでいた(る?)高校教員であることを思い出した。おそらく、もう30年も前に、何度かお会いしたことがあるのだが、その先生がこんな本を書くような勉強をされていたとは知らなかったし、現在、ご存命であるかどうかも分からない。ネットで検索してみても、この本に関する情報しか探せない。奥書に書かれた略歴によって計算すれば、今年87歳である。
 それはともかく、なかなか手応えのある本だったので、その本に対する批判の形で、短歌に関する自分の考えを補足的に書いておくことにする。
 岩澤先生は、私と同様、短歌の定型性の崩れを問題にするが、私に比べるとかなり実証的である。先生は、1999年1~3月に全国紙と地方紙(おそらく河北だろう)に載った短歌726首と、百人一首+学研『古語辞典』付録「名歌辞典」に載った624首について、定型がどの程度守られているかを調べた。
 そして、昔の短歌は75%が定型(31音)で、今の短歌は定型が48%に過ぎないことを明らかにした。しかも、昔の定型外短歌は、字余りがほとんど2音止まりであるのに対して、現代の定型外短歌は、8音の字余りまで、かなり雑多である。しかし、先生も書いておられるが、私も、昔の短歌も定型率は意外に低いものだなと思った。先生と同じく、昔の短歌は9割が定型を守っていると思っていた。
 ああ、聞いたことがあるような気がするなぁ、と思いつつも新鮮だったのは、本居宣長の『字音仮名用格』の話である。宣長はその本の中で、定型を崩している主に字余りの句(短歌の最小単位。5音と7音というまとまり)は、かならず「あ」「い」「う」「お」の音を含んでいて、「え」の音を含まない、というものである。なぜそのようなことが起きるかについても先生は考察しておられるが、それより大事なのは、宣長が発見したこのルールが、確かに昔の短歌においては有効であるが、破格の現代短歌には通用しないということである。
 つまり、現代短歌の方が単に27%も定型外が多いというだけではなく、その崩れ方も非常に大きく、人によっては、短歌の体を為していないと言いたくなるような現状がある、ということになる。
 この後、先生は字余り短歌発生(定型の崩れ)の理由を考察する。長くなるので端折るが、先生は啄木を始めとする現代歌人たちの、字余りに関する言説を紹介、検討し、それをヒントとして理由を探ろうとしている。そして、見つけ出した理由を6つに整理している。しかし、どうやら、その中で最も重要だと先生が考えているのは、短歌が朗詠するものでなくなったこと、である。先生は「勝手な思い込みですが」と断った上で、次のように書いている。

「〈短歌を歌唱することがなくなった〉ことが、音声の長短・強弱・高低・大小の感覚を減衰させ、音数律というものを麻痺させてしまったのではないでしょうか。そうでもなければ、57577の短歌を作っているといいながら、作られた短歌の半数以上が68677とか57588とか、無数のパターンの字余り短歌だというような現象は起こり得ないのではないかと思います。」

 これは、実は私が考えたことと同じだ。やはり、音読をしなければ、音数律に対する感覚は鈍化してしまうのである。
 先生の考察が実証的で丁寧であるだけに、私としてはとても心強い援軍と感じられたことであった。もちろん、本のタイトル『定型に還れ』も、私の主張と同じである。
 さて、短歌の定型性に関する議論の補足はこれでおしまいなのであるが、この本には他にも短歌に関するいくつかの問題が含まれているので、明日以降、それらにも触れてみたいと思う。