短歌の定型性について(1)


 2010年2月17日に、私は高校時代の校長であられた歌人・米口実先生について書いた(→こちら)。当時、私は先生がご存命かどうかも知らなかったのだが、最近になって、米口先生の消息についてコメントを下さった方がいて、先生が90歳でご存命であることと居所が分かった。連休中にお手紙を書いて差し上げたところ、10日ほど経って返事をいただいた。昨年上梓された私家集(『米口實歌集』砂子屋書房)が添えられていた。私はこの間、先生が2009年に上梓された歌論集『拡大と変容』(青磁社)を、苦心惨憺、脂汗を流しながら読んでいた。

 今、この間の経緯や、先生の著書に対する感想を書くことは出来ない。これほどの巨大な教養人が、なぜ田舎の県立高校長や名もない(失礼!)短大の教授として、いわば市井に埋もれていたのか理解に苦しむばかりである。ただ、自分としては珍しいほど、現代短歌に触れた1ヶ月半を過ごしてきたので、それについていささか気になったことを書き留めておこうと思う。

 それは、基本的に短歌の定型性(57577)という問題だ。

 この手のことに疎い私でも、新聞の歌壇などをちらりと見ながら、短歌の定型性がずいぶん崩れてしまっていることは知っていた。短歌などという文学ジャンルは、定型性をこそ命にすると思っていたので、なぜ人がそれを放棄するのか、なぜ定型性を失った短歌に価値があるのか理解できずにいた。

 『拡大と変容』には、「短歌の散文化ということ」という一文があって、短歌の口語化と定型性の喪失についての、米口先生による文学史的な考察を読むことが出来る。その論旨は一見明快であるが、本当に理解できるかどうか、納得できるかどうかはまた別問題、という気がした。

 米口先生によれば、短歌の定型性の崩壊は、一言で言うと、近代主義の反映であるということになる。つまり、言葉の持つ普遍的な美を中核に据えて歌を作るのではなく、自分の目で見て歌を作るという姿勢が登場すると、そのような手法に最も適合するものとして散文の文体や語彙が選択されるようになり、定型性の破壊と口語の採用が進んだのである。

 更に言えば、近代は「私」を表現することを目指したのであり、その必然が口語自由律だった。米口先生は、「何故、短歌は口語を使うべきなのか。それは今に生きる『私』を表現するには古語は既に不適切だったからである。何故、定型を否定するのか。それは定型という外からの束縛があれば自由に今を生き『私』が表現できないからである。何故、散文化しようととするのか。それは『私』に固執する限りその生活的私的世界はすでに散文だからである」と書く。

 加藤周一の「日本の庭」という評論(著作集第12巻)に、次のような一節があるのを、ふと思い出した。『作庭記』や『築山庭造伝』といった書物には、造園に関する煩瑣な規則が書かれているが、それに龍安寺石庭の作者がどのように向き合ったか、ということを論じた部分である。

 「規則を破るところに作者の『自由』があったのではなく、もし規則があったとすれば、規則をまもるところにこの作者の自由があったにちがいないということである。彼は、素材の抵抗が大きければ、大きいほど、せまい庭の制限が著しければ、著しいほど、また従うべき規則が厳しければ、厳しいほど、与えられた条件を克服して自己を実現する精神の自由が、それだけゆるぎなく、それだけ力強いということを知っていたはずである。」

 これは、短歌にもそのまま当てはまるのではないだろうか?煩瑣な規則によって、自らを表現できなくなるのは二流以下の話であって、優れた作者は、その規則の中でさえ、いや、その規則の中でこそ、思い通りの美を実現させることが出来る。

 各節の末尾の音をそろえるというだけでいいなら、日本語で「韻を踏む」ことは難しくない。しかし、そうして韻文を作った時、こと日本語においては、それによって響きの美しさが生まれるよりも、むしろ単調さを増す結果になるように思う。マチネ・ポエティクという日本語の定型押韻詩運動に対する三好達治の批判(「マチネ・ポエティクの試作に就いて」三好全集第4巻)は、おおむね正しい。だからこそ、日本の文学史の中で、言葉の音の美しさは、脚韻ではなくて、音の配列(音律)を中心に作られた。その典型が、短歌や俳句の定型性である。これは厳しい制約には違いないけれど、その枠を守ろうとすることによって、言葉は精選され磨かれてきたのではなかったか?その枠を壊せば、なるほど自由になるには違いないけれども、際限のない弛緩と冗長を生むことになるのではないか?

 米口先生ももちろんこのことにはお気付きで、「自由律短歌は詩的緊張を失った時、それは定型という束縛が無いために安易に散文に転落する危険性を孕んでいる。」と指摘し、「新短歌の中に表れてくる『私』は散文的、生活的な領域における『私』と決して重なるものではないと考えている。われわれは生活者として日常的に散文的な世界に陥没しているが、それを『詩』の領域に引き上げるのが短歌の表現という行為だと思う。」とし、更に、「定型という形式は短歌の基本原理であった。それを束縛として捨て去ることはすでに見てきたように短歌を解体させたのである。短歌の詩としての凝固性は定型という外的束縛に拮抗してゆく言葉の力によって生まれるのである」とする。つまり、先生は、「私」ということを表現しようとすれば散文化せざるを得ないと、一見、短歌の散文化、すなわち定型性の否定を認めるように言っておきながら、最終的には、「私」をより高次に引き上げて表現するために、短歌という束縛、すなわち定型性を維持した短歌が必要だとするのである。しかし、先生ご自身も定型性を踏み外した歌は相当数詠んでおられる。(続く)