短歌の定型性について(2)


 短歌における定型性ということを考えた場合、57577という音律を守るということの他に、「句跨り」という問題がある。言うまでもなく、短歌は「首」という単位で数えるが、短歌を構成する57577という音の単位をそれぞれ「句」と呼ぶ。短歌一首は五句から成り立っているということになる。通常は、各句がある程度の意味的なまとまりを持っているが、句の途中に意味的な切れ目があって、音の切れ目と意味の切れ目が一致していない場合がある。これを「句跨り」と言う。手っ取り早く、例を挙げよう。米口先生の歌である。

  A:かのひとの葬りすぎたり卵産み終えたる鮭のような死に方

 これを、通常の句に分ければ、以下のようになる。

  B:かのひとの 葬りすぎたり 卵産み 終えたる鮭の ような死に方

 ところが、言葉の結び付きと意味に着目すると、以下のようになる。

  C:かのひとの 葬りすぎたり 卵産み終えたる 鮭のような死に方

 この場合、「産み終えたり」が第三句と第四句に跨り、「鮭のような」が第四句と第五句に跨っているということになる。これなどは、意味をまったく考えなければ、57577の音律をしっかり守った歌だが(「葬り」は「はぶり」と読むはず)、その音律を意識して読むと、意味的な混乱を起こす。短歌が何かしらの意味を伝えようとしている以上、Cのように読まざるを得ないが、そうするとこの短歌は5・7・9・10となり(「鮭のような 死に方」と分けて、57964と考えることも可能)、音律は完全に崩れているということになる。句跨りという別種の破格が存在すると言うよりは、音律を崩すという破格の中に、その原因として句跨りも含まれるということだ。

 米口先生は、岡井隆の次のような歌を引用して、句跨りにも言及しておられる。

  詩人の首われの机上に飾られて久し われらの倦怠も久し

 この歌は、第四句が「久しわれらの」となっていて、前から続く「久し」と後に掛かる「われらの」が同居することで、分裂している。従来の表記に従えば、「詩人の首われの机上に飾られて久しわれらの倦怠も久し」と書かれるべきであるが、そう書いてしまうと、読者が言葉上の意味を理解しにくくいので、岡野はひとマス開けるという表記上の工夫をしたわけだ。先生は、この歌で問題となる下の句について、「一般に句跨りは異端として退けられて来た。公認されるようになったのはそれが現代短歌の文体として確立されるようになったからで、その為に短歌の表記に於いて一字分だけ空白を置くという措置が効いてくるのだ」と評価する。しかし、これだけでは、なぜ句跨りが現代短歌の文体として公認されるようになったのかが分からない。

 先生ご自身も、これと同じ手法の歌を作っておられるが、私は、この部分に、短歌の定型性が何故崩れたかということについての答えが表れているように思う。

 つまり、空白を置くということは、極めて視覚的な表現である。思えば、短歌は、もともと朗詠することを前提として作られたのではなかったか?あらゆる言語は音として生まれ、ずっと後の時代になって、それが文字によって固定されるようになった。そのことと同様に、書いて届けられることも多かったにせよ、基本的に朗詠することを前提として作られていた短歌が、明治以降(石川啄木の「三行分かち書き」の短歌が思い出される)、あるいは昭和に入ってから、文字で書かれることを前提としたものに変わったということなのではないか?音声よりも視覚に頼るからこそ、大幅な字余りといった音律の乱れや句跨りに、それ以前よりも抵抗を感じないのではないか?例えば、次のような先生の歌は、そのことをよく表しているだろう。

  水上の音楽聴きつつたのしヘンデルは足に水虫を飼いてをりしや

 歌集では、「水上の音楽」に「バッサー・ムジーク」と振り仮名が振ってある。おそらく、声に出して読む時には「バッサー・ムジーク」と読ませたいが、意味が分からないと困るので、歌そのものには「水上の音楽」と書いたのだろう。このような表記が行われることによって、短歌が朗詠するものとしてではなく、活字を通して読むものとして想定されていたことが分かるように思う。明らかに、短歌は詠むものではなく、書くものとなっているのだ。

 また、この歌において、第四句「足に水虫を」は字余りであるが、「を」がどうしても必要な言葉だったかどうかは疑わしい。先生は、極めて厳密に言葉を選んでいるはずなので、姿勢の甘さの結果として「を」を残してしまった、などということはないだろう。だから、このことは、現代の歌人にとって、いかに57577という伝統的な音律が軽いものとなっているか、ということの表れなのではないだろうか。

  〈美人陰有水仙花香〉たましひの渇くゆふべはみづ飲みにゆく

  歌詠むははた楽しきか三十一文字之苦患あるいは老狂之数奇

  身体効かなくなれば仕事がなくなればどうして明日を思へるだらう

  〈球根栽培〉筺(ルビ「はこ」)より出でぬ目くらむやうなりしかの革命幻視

 先生の歌集から、いかにも定型性を逸脱している歌を、思いつくままに引いた。最初の歌など、漢詩の引用と思われる部分(「美人の陰に水仙花の香り有り」と読むはず)が、ほとんど詞書きのような役割を果たしていて、短歌は、その後に続く577の部分だけと言ってもよいほどだ。二首目、三首目は5・7・10・11(または5・7・10・4・7)および10・9・7・7という四句だけの短歌として存在するようだ。四首目は〈球根栽培〉以下の部分が、4・7・5・9のようだが、もはや意味も音律もまったく不明だ。

 誤解してはいけないが、先生の歌にも、定型性が完全に守られている歌はたくさんあって、むしろそのような歌の方が多い。だからこそ、なぜあえて定型性を逸脱した歌を作ったのかが問題になるのだし、それらを同列に並べて鑑賞し、まして優劣を論ずるなどということが私には出来ない。そして短歌は、いよいよ得体の知れないものとして、私の前に立ち現れてくるのである。(続く)