詞書の問題

 最後に「詞書(ことばがき)」の問題に触れる。
 詞書とは、短歌の前に書かれている作歌事情を説明した部分である。岩澤先生が引いている『万葉集』の大伴旅人の歌で具体的に見てみよう。

a 大宰帥大伴卿(だざいのそちおおとものまえつきみ) 酒を讃むる歌
b この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ

 aが詞書で、bが歌である。岩澤先生は歌だけ口語訳を示している。次の通りだ。

「この世で(酒を飲み)楽しく過ごせるならば、来世では虫にも鳥にも私はなってもかまわない。」

 これに基づき、岩澤先生は詞書について次のような見解を述べる。長くなるが引く。

「詞書はもともと作者のメモであって、読者には不要のものではないでしょうか。ある本には、『詞書を解釈に生かせば、その短歌のより奥深い鑑賞が出来る』という考えが述べられています。
 この考えに立てば、一つに、『短歌本体では詩情の表現が不十分である』ということになり、短歌57577は文学としては独立した、あるいは完結した価値を持たないものになってしまいます。表現したいことを十分に表現できない、半端な文学ということになってしまうでしょう。
 二つに、もし『短歌57577で表現できなかったことを詞書で補えばよいのだ』というところまで拡大されれば、もはや短歌は、自ら31文字を突き破り、音節数は無限のしろものになってしまうはずです。
 以上の二点から、詞書は読者(鑑賞者)には不要のものと考えるのですが、いかがでしょうか。先に引いた大伴旅人の短歌も、詞書から酒に限定するよりは、一般的な楽しみで十分に鑑賞できる、いや、むしろ幅広い深みのある短歌と言えるのではないかとさえ私には思われます。」

 岩澤先生の見解は、一見もっともらしい。だが、私は同意しかねる。というのも、文章(広く詩歌を含む文字表現)というのは特定の状況の中で作られているからだ。
 例えば、上の大伴旅人の歌が、酒席における余興として詠まれたとしよう。その場に居合わせた人々には状況が分かっているので、詞書は要らない。岩澤先生が口語訳で補足した「(酒を飲み)」がなくても歌の主旨を容易に理解できた。しかし、その場にいなかった人は酒を愛でる歌としては理解できない。このブログの記事にも、特に時事問題に関する論評で、その当時どのような事件が発生したことを受けて書いているのか理解しにくくなっている記事があるはずだ。書いた時には、誰にでもどのような事件についての論評なのかが容易に理解できたはずなのに、である。
 先生が言うように「一般的な楽しみで十分に理解できる」というのも決して間違ってはいないが、常にそのように言えるとは限らないし、詠者が言いたかったことを離れた鑑賞が、詠者にとって歓迎すべきものであるかどうかは分からない。上の歌は、詞書がなければ「酒を讃むる」という主題がまったく理解できないのである。
 確かに、歌に詠みきれなかったことを詞書で補えばいいとなれば、短歌の価値が相対的に低下してしまう。しかし、例えば「歌物語」というものを考えてみよう。
 歌物語とは、言うまでもなく、「歌」をクライマックスに配置した物語であり、『伊勢物語』や『平中物語』『大和物語』あたりが代表格である。私は、授業で歌物語を説明する時、「詞書が肥大して一つの物語にまでなってしまったものだ」と言っている。
 また、『源氏物語』を筆頭として、『土佐日記』や『大鏡』などなど、クライマックスに短歌が配置されている文学作品は少なくない。歌物語に分類される作品と、短歌を含む歌物語以外の作品とは何が違うの?と頭が混乱するほどだ。
 それらの中で、果たして短歌は相対的に価値を下げているだろうか?私はそうは思わない。高まった感情を固定することに関して、短歌の機能は絶大である。詞書や物語によって作歌背景が説明されたからと言って、その存在感を低下させ、物語の一部に取り込まれてしまいそうになるほど、短歌は貧弱な表現様式ではないのだ。むしろ、その短歌のためにこそ物語部分があると思わせるほど、短歌は燦然とした存在感を示している。歌というのはそういうものである。
 私は詞書の成り立ちというものを知らないのだが、決して「作者のメモ」などというものではない。短歌を作られた時代と状況に引き戻し、そこに詠み込まれた感興を新鮮に味わわせるための大切なツールである。私はそう思っている。