短歌の定型性について(3)


 一昨日書いたとおり、短歌が、明治以降その定型性を失ってきたのは、朗詠されるものから書かれるものへ、耳で聞くものから目を通して味わうものへと変化したことが大きな理由であると、私は思う。これがいわば結論なのであるが、少し蛇足を付け加えておこうと思う。

 

  田子の浦ゆ打出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪はふりける


 もともと『万葉集』に載る山部赤人のこの歌について、小林秀雄は、「姿のいい人がある様に、姿のいい歌がある。歌人の歌の言葉は、真っ白な雪の降った富士の山のような美しい姿をしているのです。だから赤人は、富士を見た時の感動を、言葉に現した、或いは言葉にした、と言うよりも、そういう感動に、言葉によって、姿を与えたと言った方がいいのです。感動というものは、読んで字の如く、感情が動いている状態です。動いているが、やがて静まり、消えて了うものです。そういう強いが不安定な感動を、言葉を使って整えて、安定した動かぬ姿にしたと言った方がいいのです。」と評する(「美を求める心」旧全集第9巻)。私は、表現も含めて、小林秀雄のこの文章が大好きだ。小林が例として挙げている赤人の歌が、『万葉集』と『小倉百人一首』でやや異なっており、初句と第二句で字余りになっているという問題を抱えた歌であるのは不都合なことだが、それでも基本的に定型(若しくは定型を目指した)の短歌で、句跨りなどあろうわけもない。

 音楽史において、「新古典主義」という立場がある。なんでも、第1次世界大戦後にブゾーニが言い出した考え方だという話は聞いたことがあるが、私にとって親しいのは晩年のストラビンスキーだ。

 『春の祭典』で管弦楽法を極めたストラビンスキーは、その後、バッハの時代に戻ろうとする。バイオリン協奏曲や『プルチネルラ』がいかにもバロックの雰囲気を湛えた代表的作品に思われる。小さな編成のオーケストラで、調性の破壊も不規則なリズムの変化もなく、強烈な打楽器の競演もない、シンプルな引き締まった響きの音楽を作った。私は、それらの作品が『春の祭典』のような「オーケストラの快感」とも言うべきものは持っていないにしても、決して貧弱な、メッセージ性の弱い作品だとは思わない。ひたすら大きくて複雑な表現を目指していた音楽は、おそらく前世紀の初め頃、マーラーや『春の祭典』で頂点に達し、限界を超えて「過剰」の領域に踏み込んでしまった。そのとき音楽家は、果たして、自分の心は、そのような大きくて複雑な器でしか表現できないのか?という問い直しを行う必要に迫られた。その結果が、新古典主義であり、『プルチネルラ』であったと思う。

 大切なのは、声を大きくして叫べば、大きな感情が表現できるとは限らない、無言でうつむくことが、最も強く豊かな感情表現であることもあり得る、ということである。

 短歌の定型性を壊すことに、どれだけの必然があるのか、私にはよく分からない。米口先生は「散文化」という言葉を使うが、実際には口語自由詩化ともいうべき現象である。それは、必ずしも表現を豊かにすることにはならないのではないか?交響曲ハイドンで完成された様式となったにも関わらず、少しずつ崩されながら、その後100年以上持ちこたえたように、短歌の定型性も、ある程度の逸脱を許容しながら、しばらくは持ちこたえるに違いない。しかし、持ちこたえながら、交響曲が最大限で考えてもショスタコーヴィチで消滅したように、このままでは短歌も消滅を迎えるのではないか?

 短歌という様式が生み出されるには、それなりの理由があったはずだ。『万葉集』には、57の音律を基礎とする長歌や仏足石歌といった様式の歌も見える。しかし、生き残ったのは短歌だけである。よほど強い必然的理由があるに違いない。そしてそれが1000年以上という驚くべき長い命を持つことが出来たのは、57577という音律が、極めて外形的・事務的で曖昧さを許さないものであったからであろう。後に俳句なるものは生まれてくるが、57577、31音という大きさは、野球におけるピッチャーとバッターとの距離、ベースとベースとの距離のように、簡潔にして激しい感情表現のために絶妙の規模だったに違いない。だとすれば、仮に、この様式が「散文化」によって消滅したとしても、表現がエスカレートする中で、再び回帰現象が現れて定型の短歌が復活するということになるような気がする。

 良歌と悪歌の区別もよく付かない私が、このようなことを論じるのは、甚だ厚かましいものがあるけれども、自分がいいと思える範囲で、やはり短歌は美しいと思う。そして、山部赤人の歌、それに基づいて発せられた「強いが不安定な感動を、言葉を使って整えて、安定した動かぬ姿にした」という言葉(小林秀雄は短歌だけではない「詩」一般について語っているのではあるけれども)は、なんと美しく、また短歌の本質を捉えた言葉だろうかと思う。人間の生活や感情は、いくら時代が変わっても基本的に変わるものではない。しかし、感情は常に新鮮で、それを表現するための言葉の組み合わせも無限である。だとすれば、短歌でそれを表現する場合、定型性を守ったとしても、表現の可能性は無限にあるような気がする。だからこそ、あの57577の快い音律を失うことは、定型性を放棄することで広がる表現の可能性を上回る惜しむべきことのように思われるのである。