W.C.カラス(3)

 ところで、日経によれば、1990年代前半、カラスが工場で働いていた頃のこととして、ゴキというミュージシャン(故人)から、仕事をしながらの音楽活動を批判されたことがあったらしい。ゴキの言い分は、「音に対して純粋じゃないといけない」というものだった。音楽に対して純粋であるためには、音楽に専念する必要がある。兼業ではダメだ。果たしてそうだろうか?
 ゴキの言い分に文句のある人はたくさんいるだろう。音楽だけで生活していける人はよい。しかし、実際には音楽家となることを志していても、それで生活が成り立たない人はたくさんいるはずだ。批判された彼らはどうすればいいのか?正社員でなければさえいいのだろうか?
 表現者として大切なのは、本当に表現したいことを持っていることだろう。けだし、「詩を書かないでいると死にたくなる人だけ、詩を書くといいと思います」(「詩界に就いて」1927年4月)という高村光太郎の言葉は至言だ。その「本当に表現したいこと」の内容はどうでもいい。愛でも恋でも、日常生活の些細な情景でも、仕事の悩みでも、美しい音それ自体でも・・・。ただ、それが全く個人的な感情であっては表現芸術にはならない。恋愛や仕事の悩みが、個人的な感情以上のものであることがあり得るのか?・・・おそらくあり得る。

「悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。(中略)詩人は(中略)放って置けば消えてしまう、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。」(小林秀雄「美を求める心」より)

 どのような感情であっても、それに真剣に向き合い、見つめ抜くことによって、そこに美しい姿があることに気づく。それが、個人的感情が普遍的になった瞬間だ。このことを抜きにして、「音に対して純粋」になったとしても、それは外面ばかりが磨かれた、いわば飾り物のような音楽にしかならないのではないか?
 カラスはゴキの忠告に対してどうしていいか分からなかったが、その数年後、職場で役職が付いた時に、自ら「役についていては自分に正直な歌は歌えない」と思い、仕事を辞め主夫になった。
 カラスが実際、どのような「本当に表現したいこと」を持っているのかはよく分からない。聞きに行く前は、それが木こりとしての生活にあるのではないか?と思っていたのだが、そうでもないらしいことは昨日書いたとおりである。仕事を辞めた経緯からすれば、何かはあるのだろう。
 初めて聴いたカラスの歌に、私はそれを発見できなかった。だが、私が彼の音楽に退屈しなかったということは、彼が「本当に表現したいこと」を持っていることを意味する。それは単に、音楽出来ることの喜びではないか?とも思う。48歳で初めてのアルバムを出し、ようやくプロとして、前座ではなくステージに立って、お客さんを集められるようになった。「大器」であるかどうかは知らず、「晩成」であることは間違いない。そして、「晩成」であるためには、息の長い活動が必要であり、それは音楽に対する「愛」なくしては実現しないはずである。
 ところで、日経の記事でもそうだが、カラスはブルース・シンガーということになっている。「〜のブルース」という歌をたくさん作っているから、自称でもあるのだろう。しかし、私は彼の歌をあまりブルースとしては認識しなかった。そもそもブルースとは、もともとアメリカ黒人の苦しいや生活を表現した音楽だった。従って、ある種の沈鬱さや哀愁が漂っているのが基本だ。もちろん、彼らの苦しみの背後には、奴隷制を可能にした不条理な世の中があるから、感情の裏にも鬱屈した怒りがつきもののような気がする。
 ところが、カラスの音楽はもっとあっけらかんと明るい。ユーモアもある。解き放たれた激しさもある。どうしても私の頭の中のブルースのイメージには合わない。だが、そんなことはどうでもいいのだろう。ブルースという枠に合うか合わないかで評価する必要なんか全然ない。彼自身がブルースだと思っているのであればそれもよし。ブルースを作ろうと思ってブルースになるのではなく、「本当に表現したいこと」を「本当に表現したいように」表現した結果として、ブルースになったと思っているのであればそれもよし。問題はやはり「本当に表現したいこと」が表現できているかどうかに尽きるのである。
 CD1枚くらい買おうかな・・・今それに悩んでいるところ。(完)