一瞬のバッハ

 ナイアンティックの講演が終わると、私はその足で、市内のM病院に行った。待合室で、無料のミニコンサートが開かれることになっていたのである。もっとも、私は終演後の飲み会に交ぜてもらえることになっているので、どちらかというとそちらが目的、という不純なお客である。
 今回やってきたのは、仙台在住のピアニスト田原さえさんと、元新日本フィル団員のチェリスト植草ひろみさん、それに地元石巻のフルートの先生、岩澤あいらさんである。メンデルスゾーンやマスカーニ、クライスラーエルガーといった有名な作曲家の有名な小品のほか、ピアノのソロもあり、チェロのソロもある、植草さんの自作自演もあるという1時間あまりの楽しい演奏会であった。
 3人は開演直前まで、まるで本番が始まっているかのように、40人近く集まったお客さんの見ている前で、「音合わせ」と称して演奏を続けていた。3人の「音合わせ」が終わった後、植草さんがバッハの無伴奏チェロ組曲第3番の冒頭を、わずか2小節弾いた。いや、1小節半と言った方がいいかもしれない。あの第3番冒頭の下降音型だけをさっと弾いたのである。すごいな、バッハ。音はもちろん一瞬にして消えてしまったのに、なんだか雄大で、圧倒的な「存在感」だ。
 演奏会本番の曲で印象に残ったのはピアソラだった。ピアソラアヴェ・マリアというのは私の知らない曲だった。チェロのメロディーだけを聴いていると、あまりピアソラに聞こえないのだが、ピアノが和音を刻み出すと、明らかにピアソラの気配が漂い始め、やがてピアノの音がバンドネオンに聞こえてくる。自分の世界に聴き手を引き込むピアソラの力に舌を巻いた。
 終演後の慰労会は、出演者と主催者であるM先生を含めてもわずか10名の小さな席だ。鱈鍋、焼き鯖、牡蠣グラタン、カツオのカルパッチョと、お料理は美味しかったし、M先生がわざわざ取り寄せたという珍しいお酒、「山形大学燦樹(きらめき)2010」(山形大学農学部付属農場で栽培した酒米を使ったオリジナル純米大吟醸酒!!)なるものまで登場し、大いに盛り上がった。もちろん、いくら美味しい料理や酒があっても、誰とどんな話をしながら呑むか、ということの方がはるかに大事で、その点でも申し分がなかった、ということである。植草さんが、来年も石巻に来たい、年に一度来ていいですか?などとしきりに言うものだから、次はハイドンの協奏曲(ピアノ伴奏で)を聴きたいとか、ピアソラを集めてやって欲しいとか、自作自演がいいとか、やっぱりバッハの無伴奏とか、みんながごちゃごちゃと勝手なリクエストを始めたところでお開きとなった。
 家に帰る途中、なぜかフラッシュバックのように無伴奏チェロ組曲第3番が頭の中に鳴り始めた。最初の1小節半に止まらず、曲はどんどん進んでゆく。鳴り始めた時は先ほど聴いた植草さんの音だったが、やがてカザルスの響きに変わっていったような気がする。家に帰り着いても、しばらく鳴り止まなかった。別に第3番でなくてもいいのだけれど、やっぱりこの曲集は一つの奇跡だ、と思う。