光太郎と智恵子(1)



 一昨日、Eテレの『日曜美術館』に触れて、久しぶりに高村光太郎について書いた。その際、光太郎と智恵子との関係について補足すると書いたので、少しだけ書いておこうと思う。

 吉本隆明高村光太郎論は、書かれてから既に50年前後経っているとは言え、いまだにこれをしのぐ光太郎論は表れていないという傑作である。その中の、智恵子、もしくは光太郎と智恵子の関係について書いた重要な部分を抜き出してみよう(文字遣いを少し改めた)。

「『智恵子抄』を、比類ない相聞の詩集と呼ぶ人々は、ここに純化された愛情を例外なく読み取っているのだが、残念なことに、この詩集で、智恵子夫人の方は、無機物のように表情を持たずに、つっ立っているだけで、操作は、もっぱら高村の内的な世界で行われている。ここに愛情と呼べるようなものがあるとすれば、高村の一人相撲としてあるだけである。」(「『智恵子抄』論」1958年)

「交際時代の詩一編を除けば、『智恵子抄』に収録された作品は夫人の〈眼〉を意識して書かれていない。また、自分の妻や、妻との生活を美化して描くことによって、実生活上の夫婦関係の危機をとりつくろったり、逆に暴露したりする意図や実効性を予想して書かれていない。長沼智恵子は高村の詩の中で、高村の掌にのっかった対象として、高村だけの内的世界に存在するものとして描かれている。いわば独自に超化された存在として。そこには夫婦の〈関係〉は描かれておらず、高村の単独世界だけが夫人をテーマに描かれている。」(「成熟について」1968年)

 多くの人が、光太郎が智恵子を美しい存在として描くことを、光太郎の深い愛情として誤解しているのではないだろうか?上の吉本の指摘は正しい。高村光太郎という強烈な自我の持ち主にとって、愛情は相手のためにあるのではなかった。相手をどのように認め、どのように描き、相手とどのように接するかは、常にあるべき自分をあるべきように保つための方法として考えられていたのである。次は高村光太郎の言葉。

「仕事という使命さえ無ければ、一生を智恵子の病気のために捧げたい気がむらむらと起こります。」(1935年8月17日中原綾子宛書簡)

「今日は病院へ参り、五ヶ月ぶりで智恵子に会いましたが、容態あまりよからず、衰弱がひどいようです。」(1938年10月5日長沼せん子宛書簡)

 前者は、仕事があるから智恵子のために尽くすことはできない、と読み替えられる。仕事をしなければ食べていくことはできないと考えれば、この考え方はおかしくない。しかし、光太郎が「仕事」と言う場合、基本的には彫刻を指すのだが、光太郎は実はほとんど彫刻では食べていなかったと思われる。光太郎は、よく言えば強い向上心の持ち主であった。その結果として、仕事は停滞を極めた。彼の作品が少ないのは、空襲でアトリエが焼けたからではなく、自分で完全に満足しない限り作品として認めなかったからである。最も極端なのは、注文を受けて作り始めた「成瀬仁蔵胸像」で、完成までに要した時間は14年、その間に試作品を10は作ったと思われる。コストという観念が光太郎にはなかった。そして、それを可能にしたのは、東京美術学校教授・帝室技芸員である父・高村光雲からの膨大な援助であった。だから、仕事のために智恵子の面倒が見られないというのは、金銭的な問題からではなく、光太郎の意識に発する問題だった。だからこそ、その言葉には、妻よりも自分の内面世界が優先するというある種の冷たさがあるのである。吉本の描く光太郎像とも重なり合う。また、後者によれば、智恵子が死ぬ間際の五ヶ月間、光太郎は病院へ行っていない。いくら家族の面会が、病人によくないという医師の指摘があったにしても、である。(続く)