高村光太郎と「天皇」(1)

(「有益なる「有害図書」」=こちらの続き)
 しばらく時間が空いてしまった。何を今更、という気もするが、どうしても気になることがあるので、少し書き足しをしておこう。それは「天皇」のことだ。
 山村明義『日本をダメにするリベラルの正体』(『正体』)には、天皇に関する記述はほとんどない。一方、日本会議の機関誌『日本の息吹』には、あちらこちらに「天皇」が顔を出す。もっとも典型的なのは、巻末の読者による投書コーナーだ。その冒頭には、Tという人が書いた「皇居清掃勤労奉仕に参加して」という投書が掲載されている。

天皇皇后両陛下のご会釈を賜りました。(中略)言葉では言い表せない慈愛に溢れた御姿はとても神々しく、気づけば意味も分からずただただ涙が溢れて止まりませんでした。一言で言うならそれは「日本人の魂が震えた」ということだったのだろうと思います。(中略)民族の歴史や価値観などを教えていくことを占領軍により巧妙に禁じられた結果、主権回復を果たした現在に至るまで精神は未だその影響下にある人が多く存在します。しかし、いくら禁じようとしても体の中に流れる日本人の血は、一瞬にして「日本人の魂」を蘇らせる力を持っていて、その絶対的なスイッチが天皇陛下、皇室であると確信しました。ということは、日本人の手に日本を取り戻すには、子供の頃から天皇陛下や皇室のことを教えればいいのだと思います。(中略)改めて我が国の素晴らしさを感じた、本当に意義深い体験でした。」

 この論理性のなさは、ある意味で感動的である。私は、しばらく前に書いたとおり(→こちら)、柄にもなく天皇に対する敬愛の情を持っているのだが、それは今上天皇が立派な人だと思うからであって、「天皇」という地位にあれば、どんな人に対しても敬愛の情を持てるかといえば、そういうものではない。逆に言えば、仮に人品において彼と同じような人がいれば(この「いれば」はかなり困難な仮定であることは認める)、「天皇」という地位になくても同様の敬愛の念を抱くような気がする。果たして、『日本の息吹』に投書したT氏は、どんな人が天皇であっても、その人が「天皇」という地位にあるだけで尊崇の念を持つことが出来るのだろうか?もしも本当にそれが可能であるなら、確かにそれは「宗教」の世界であって、その信仰心は「日本人の血」という得体の知れないものの作用であるかも知れない。
 このようないわば天皇信仰を目の当たりにする時、私の脳裏に浮かんでくるのは高村光太郎だ。『道程』や『智恵子抄』で国民的人気詩人となった高村光太郎であるが、実は「天皇とは何か?」という問題を考える上で、非常に興味深い人物なのだ。
 大抵は既に拙著『「高村光太郎」という生き方』(三一書房、2007年)に書いたことではあるが、いくつかの場面で断片的な触れかたをしているということもあり、現在、その本が品切れで手に入らないという事情もあるので、改めて少し整理しておこうと思う。
 高村光太郎という人は、20代の半ばにアメリカ、イギリス、フランスへと3年あまりの留学をした。この時に目覚めた自我と、欧米で接した個人主義思想は、その後の彼の人生に大きな影響を与えた。

「私は思う。現代の如何なる人の言をも容易くは受け入れまい。自己の求める所と契合しない以上は吟味しよう。自己と天然とのつながりの外に何等頼む可きものは無い。自己の幼稚さ、単純さを恥じまい。常に自己の本性を極めようとしよう。常に天然から発見しよう。常に古に就いて研こう。納得の出来るだけを一歩づつ進もう。」(「雑記帳より」1927年1月1日)

 私は著書で、一切の先入観を排して、自分自身で何が正しいかを考えながら生きようとする光太郎の考え方(人生方針)を「自我の思想」と呼んだ。必然的に、光太郎は相対的な生き方をする世間の人々とは対立することになる。

「パリの社会になれた生活を目安にして、あらゆる方面の旧体制に楯ついた。自分ではこの世のうそっぱちを払いのけて、真実をひたすら求めていたつもりでいたのである。親類縁者や他人からは札つきの不良のように目されながら、自分では無二の良心を研いでいたつもりでいた。良心に従えば従うほど、世間のおきてと逆になり、むろん要領のよい生活など出来なくなった。」(「父との関係」1954年)

 そして、最も激しく対立したのは、彼にとっての権威、親であるというだけでなく、彫刻の師匠でもあった父・高村光雲であった。

「父の誇りとする位階勲等とか、世間的肩書きとか、門戸を張った生活とか、顔とか、ヒキとか、一切のそういうものを、塵か、あくたか、汚物のように感ぜずにいられず、父の得意とするところをめちゃめちゃに踏みにじり、父の望むところを悉く逆に行くという羽目になった。」(同前)

 いつの間に、何の話になったの?と言われそうだが、高村光太郎天皇との関係を考える場合、やはりこのことはどうしても確認しておかなければならないのである。(続く)