体罰はやっぱり必要・・・だよね?



(2月14日付学級通信より)


 バレンタインデーに先立つ3連休の中日、10日の夕方、我が家で「お見合い」というイベントを催した。やって来たのは、私と妻の若い知人である。結果としてうまくいったのかどうかは分からないが、恋が始まるかも知れないというトキメキはいいものだな、と思った。恋は子孫を残すという生き物の原点に結びつくものだし、人類は、古来それをきっかけにしてこそ様々な文学・芸術を生み出してきたのである。ずいぶん日も長くなってきたし、気分はウキウキ春である。


体罰はやっぱり必要!・・・だよね?】

 一昨日までに、全員から「体罰アンケート」というものを提出してもらった。もちろん、封筒の中は見ずに教頭に出したので、何が書いてあったかは分からない。場合によっては、校長から呼び出されて事情を聞かれるのであろう。楽しみにしていることにする。

 何しろ、コトの発端が部活顧問の体罰による自殺である。世の中では大々的な「反体罰キャンペーン」が行われているように見える。私の体罰についての考えの一部は、先月20日のブログに書いたので、暇なら覗いてみて欲しい。基本的には、私も体罰否定論者であるが、最近こんなことも思う。

 朝読・朝学がスムーズに始められなくて私が声を荒げる、ということが、今年になってからだけでも何回かあった。授業開始のチャイムが鳴った時に教科書・ノートが机上に揃っているということは、相変わらずない。つまり、2年近く同じことを言い続けても、状況はほとんど改善されないのである。教科書・ノートをそろえて授業に臨むというのは「特別な」ことだろうか?いや、おそらくは「当たり前の」ことだろう。当たり前のことをこれだけ繰り返し言っても出来ないなら、あとは殴るしかない、ということにならないか?体罰が否定されるためには、言葉で言えば分かるという前提が必要だ。

 時間通り授業の準備が出来ない生徒はボコボコに殴れば、状況はドラマチックに改善されるだろう。勉強しないということについても、赤点や留年より、殴った方が効くような気がする。では、なぜ私がそうしないかと言えば、法で禁じられているとか、人間に対する愛と信頼とかいった立派なことではなく、単に自分の手が痛いのは嫌だから、というだけかも知れない(笑)。だが、本当は、日常の礼儀作法や常識的な行いというのは、言って分からなければ殴ってでも身に付けさせた方が、教師として良心的なのではないか?さぁ、諸君はどう思う?


その他の記事省略

(裏面:2月6日付け『朝日新聞』より、「丸刈り謝罪、誰のため?」を引用。

 平居コメント:メディアに登場するものは、AKB48であれ何であれ、「商品」としての性質を持つ。「商品」というのは、何が正しいかではなく、どうすれば儲かるか、の世界である。「正しい」と「儲かる」は一致させられるのかどうか?そんなことが問われた事件だった。)