宇宙飛行士以上の存在

 1時間半ほどかけてのんびり総持寺見物をすると、いよいよ本命、日本海洋事業(日海事)へ向かった。集合場所は、京浜急行電鉄本線の追浜(おっぱま)駅である。
 前回(→こちら)書いたとおり、日海事はJAMSTEC(独立行政法人海洋研究開発機構)の船舶運航部門である。本社は、一応、横須賀市役所(追浜から5駅)の近くにあるのだが、職員の大半は船員で、船はJAMSTECの前に接岸・停泊する。当然、船舶や研究機器の維持管理をする技術者も、ほとんど全てJAMSTECに作業場がある。だから、今回の見学もそこなのだ。年度末のあわただしい時期に、よくぞこんな見学の設定をしてくれた、と思う方もいるだろうが、そのような世俗のスケジュールではなく、船が港にいる時期がいつかという所から出発して調整した結果の日程である。目当ての船「よこすか」は、長い航海から戻って、3月30日から1週間停泊している。
 さて、待ち合わせ時間の20分前に着くと、Hさんは既に待っていた。事前に知らされていたのだが、東京海洋大学水産大学校、清水海上技術短大の学生12名の就職前会社見学と一緒の行動だ。当然、全員がリクルートスタイルである。私だけがまったくの普段着。我が宮水の職員2名も、スーツを着て時間通りやって来た。
 路線バスに乗り、10分ほどでJAMSTECに着く。目の前に、先日、仙台で見せてもらった新青丸が停泊している。隣に、更に大きな「よこすか」(4500トン)が泊まっている。これが「しんかい6500」(以下、日海事内部での略称により6Kとする)の母船である。まずは「よこすか」に乗船、会社や船についての一通りの説明を聞き、その後、船内見学に移る。
 「よこすか」は1990年建造。既に25年を経たいわば老朽船だ。ブリッジは、新青丸を見た後に見ればびっくりするほどアナログ的、旧態依然とした「操舵室」である。実習船・宮城丸(650トン)より大きいが、さほど雰囲気は変わらない。後付けであろう液晶モニターもあるにはあるが、ブラウン管のモニターも健在だ。もちろん、タッチパネルなんてない。こうなると、自動車の運転免許に「AT限定」があるように、船の資格も何かの基準で分けなければならないのではないか、と思われてくる。
 操舵室の裏が、6Kの司令室。ここで、海底6500メートルにいる6Kと通信し、状況を把握して指示を出していると思うと、それだけで不思議な感動に包まれてくる。地上で6500メートルと言えば、我が家から宮水までの通勤距離よりも短い、他愛もない距離のように思われるが、なにしろ北米最高峰マッキンレー(6192m)を逆さまにして海に入れても届かないという世界である。毎分40m強の速さで潜っていっても、着くのに2時間半かかる。水中では電波が届かないので、やり取りは全て音波による。小さな黒いマイクが、モニター画面の横にぶら下げられていて、それが6Kとの音声通信用。モニターには海底の様子が映し出される。音波で画像を送ることが出来るというのも、なんだか意外ですごい話だ。電波も音波もエネルギーの波なので、同じように使えて不思議はないのだが、「電波」が抽象的であるのに対し、「音波」というと、伝わるのは「音」と具体的で限定されている感じがするから、そう思うのだろう。
 そしていよいよ、6Kの格納庫。本物の存在感は、やはり圧倒的だ。点検整備の最中ということで、一部は側面のカバーが取り外されていて、見学のためにはかえって好都合だ。内部の構造もよく見える。直径2m、厚さ7cmのチタン製の耐圧殻で出来た操縦室は、入らせてはもらえなかったが、照明を点け、窓から内部が見られるようにしてくれていた。
 二人のスタッフがいた。一人は司令のSさん、もう一人はパイロットのKさんだ。実は、今回の見学の前に、私は予習として2冊の本を読んだ。1冊は藤崎慎吾・田代省三・藤岡換太郎『深海のパイロット』(光文社新書、2003年)、もう1冊は平井明日菜・上垣喜寛『深海でサンドイッチ』(こぶし書房、2015年)である。後者は、「よこすか」の司厨(調理場)の話なので、また別の機会に触れることにする。前者は、まさに6Kの本だ。Sさんは、そこにも司令として登場する。Kさんは出てこないが、次のような記述を読むと、6Kのパイロットというのがいかに特別な存在であるかということがよく分かる。(二箇所とも「はじめに」より)

「宇宙飛行士の数は日本では8人、世界には280人以上(ただし引退者も含む)いる。一方、深海潜水調査船のパイロットは日本では20人程度だが、全世界では40人前後しかいない。そういう意味では宇宙飛行士より特殊な職業だ。」
「深海も宇宙も、フロンティアという意味では同じである。どちらも生身の人間は生存できない、苛酷な世界だ。巨大な水圧や電波が使えないなどといった条件を考えると、深海の方がアクセスしにくい面もある。いずれにしても同じように危険を冒して人間の活動の領域を広げることに貢献しているにもかかわらず、宇宙飛行士にはスター並みの知名度があり、潜水調査船パイロットはまったく無名というのは、考えてみればおかしな話だ。」

 私はこれを読んで大きくうなずいた。確かにそれは「おかしな話」だ。宇宙空間は真空で、温度変化も極端に激しい(太陽の光を直接受けているかどうかで、数百度変化する)ので、「巨大な水圧」がそれに比べて特殊とは言いきれないが、電波が使えないのはハンディだし、何より、深海底は宇宙空間に比べると圧倒的に見通しが利かない。電波が通じないのと同じ理屈で光の減衰が激しく、自動車のヘッドライトの20倍以上の明るさのライトで照らしても、10mくらい先までしか見えないのである。何から何まで予めプログラムされたとおりにコントロールされている宇宙船に比べると、潜水調査船は「操縦」という手作業の重要性もはるかに大きい。だから、母船と線で繋がっていない状態で独力航行し、海底調査を支えているパイロットは、宇宙飛行士以下の存在では絶対にない。少なくとも私にとっては、宇宙飛行士と同じくヒーローだ。その本人が、今、目の前にいる。
 SさんやKさんに会えた感動は、もしかすると本物の6Kを目の当たりにした感動よりも大きかったかも知れない。それは、物よりも、能力や実績の蓄積された人間の方をよりいっそう価値あるものとして評価するという、一種の本能が私の中にあるということなのだろう。(続く)


(注)JAMSTECは、ホームページを見ると、「国立研究開発法人」となっており、パンフレットを見ると「独立行政法人」となっている。3月26日の記事では、ホームページに従って書き、今日の記事はパンフレットに従って書いたので、両者の表記が異なっている。この違いには、帰宅後、この記事を書きながら気が付いたので、質問できなかった。何かのために、あえて統一せず、そのままにしておく。