大本山・総持寺

 鶴見駅に戻ると、曹洞宗大本山総持寺(そうじじ)に行った。参道の入り口まで、歩いて10分くらいである。
 以前書いたことがあるかも知れないが、私は、とある事情で、大学時代に3年あまり(1981〜1984年)曹洞宗の寺院に寄宿、と言うより、居候していたことがある。私の父の実家は、三重県の田舎にある禅寺である。しかし、そちらは臨済宗。居候していたのは曹洞宗。父の実家(つまり祖父母の家)に行ったことなど、さほど多いわけではないので、曹洞宗の方が親近感は強い。もっとも、信心などほとんど持ち合わせてはおらず、曹洞宗臨済宗の教義上の違いもさほどよく分かっていない。
 それでも、禅寺に居候していた時代から、日本にたった二つしかない曹洞宗の「大本山」、すなわち永平寺総持寺は、私にとってなんとなく特別な存在感を持つ崇高なお寺だった。一度行ってみたいと思いつつ、福井県永平寺は1990年3月に訪ねることが出来たものの、それよりもずっと訪問容易そうな総持寺は、今に至るまで訪ねる機会を持てずにいた。
 関東地方は、二日続けて20度を超える陽気。桜も咲き始め、総持寺境内の桜も木によってはほとんど満開。微かな風が吹き、青空の広がる最高の天気だった。
 さすがは「大本山」。首都圏であるにもかかわらず、敷地面積は広大で、伽藍の一つ一つも巨大だ。しかし、いかにも古めかしく美しい木造建築がある一方、コンクリート造りの建物もあって、かなり不調和だ。なにしろ、本堂(太祖堂)からしてコンクリートである。その近代的本堂も、中は柱と梁以外、木による内装が施されていて、入れば、外見ほどコンクリートであることは感じさせないし、僧堂と香積台という本部事務所のような所とを結ぶ長い直線廊下はぴかぴかに磨かれていて、修行道場らしい緊張感を漂わせていたが、それでも「ありがたみ度」はかなり低い。
 ところで、曹洞宗にはなぜ「大本山」が二つあるのか、「大本山」とはそもそも何か、ということは誰しも気になることであろう。その疑問に直接答えた資料は探せていないが、曹洞宗のホームページによれば、永平寺が1244年、総持寺が1321年の開山。遅れて開かれた総持寺も、開いたのは道元とともに「二祖」とされる瑩山(けいざん)である。また、総持寺の本堂斜め裏には、後醍醐天皇をまつった「御霊殿」なるものがあるのだが、これは、後醍醐天皇によって総持寺が庇護された恩によっている。総持寺の開祖・瑩山禅師に後醍醐天皇が信仰上の質問をしたところ、禅師が見事に答えたことから、後醍醐天皇は「曹洞出世の道場」という綸旨を下し、総持寺を官寺に昇格させて庇護したというのである。だから、おそらくは、その歴史の長さや開山のいきさつ、天皇との関わりにより、宗門の中で特別重要な役割を果たしてきたため、これら二つを「大本山」という特別な存在にしたのだろう。曹洞宗のトップである管長も、永平寺貫首総持寺貫首が2年交替で務めることになっているという。
 とは言え、総持寺が開山された時、寺は能登半島にあった。1898年に火事で伽藍が消失した後、鶴見に移転したのだという。移転は1911年というから、明治末のことである。だから、今の総持寺にある最も古い建物でも、建築後の年数はたかだか100年ほどで、文化財的価値はさほど高くない。だからだろうか?拝観料を取るということもない。宗教上の理由があるなら価値のある場所だが、第三者がわざわざ観光に行くほどの場所かどうかは微妙なところだ。
 どこから集まってきたのか不思議に思うほど、保育士に連れられて来た子どもたちが、境内全体にあふれていた。みんなものすごく元気で、鳥の声をかき消すほどの叫び声を上げながら走り回っている。一方、境内の銀杏の枝切りのチェーンソーの音も騒々しい。だが、チェーンソーは耳障りでも、子どもたちの声は耳障りでない。「心を素直にして幼子のようにならなければ、神の国に入ることは出来ない」とは聖書の中の一説だが、仏教経典の中でも同様のことは語られているのではあるまいか?あの素直で邪気のない声は、確かにお寺によく似合う。仏性は彼らの中にこそある、と思われる。