ニジマスの運命

 小学生の愚息が、昨日から2日間、学校行事である蔵王合宿というのに行っていた。楽しみに待つ時間は長いのに、1泊2日は一瞬で終わってしまったとのことで、それでもご機嫌で帰宅した。
 事前に話を聞いていると、短い時間の中に実にたくさんのプログラムが用意されている。その中に、ニジマスを捕って食べる、というのがあった。小川の一隅がせき止められていて、その中にニジマスが放流されている。それを素手で捕まえて、子ども達が自分で捌き、焼いて食べるというものである。命をいただくことのありがたさを実感し、命の大切さに気付くための企画だ。その価値を私は否定しない。
 ところが、愚息が出発する前、私が先に家を出たのだが、駅へ向かう道すがら、今日の午後、愚息に捕まることになっているニジマスは、もう既に神によって決まっているのだろうなぁ、ということが、ふと頭に浮かんだ。それは私にとって思いがけず、しかも、なかなかに深刻な重い気付きであった。私は、狼狽に近い思いを抱いたのである。
 愚息にとってニジマスニジマスであって、どの一匹という意識もなく、偶然目の前に泳いできたものを反射的に捕まえるに過ぎない。一方のニジマスは、我が愚息に捕まるどころか、数時間後に、子どもがやって来て自分たちを捕らえ、生きながらにして腹を割かれ、火で焼かれるという過酷な運命を予想することもなく、おそらくはほとんど何も考えることなく、子ども達が流れの中に踏み込んでくるその瞬間まで、清流の中で流れてくる餌に関心を集中させているのだろう。だが、確かに、どのニジマスが愚息の手にかかるかまで含めて、全ては予め決まっているのだ。あの無邪気に楽しげな愚息の顔を見ていた直後、そんなことを考えると、「運命」というものの恐ろしさ、深刻さというものが妙に身に迫ってくる。
 もちろん、かくいう私も、今後の自分の運命というものを一切知らない。この文章を書き終わるまで生きていられるかどうか定かでないにもかかわらず、である。知らないことが悪いというわけでもない。知らないから呑気でいられる。考えても仕方がないことは、考えないに限る。それでも、どうもこの気付きは、今に至るまで私の中で尾を引いている。
 ご機嫌で帰宅した愚息に、「命をいただきます、と感謝して食べたか?」と尋ねると、「うん、美味しかったよ。自分としては頑張って(=身の多くを)食べた。」と、少しとんちんかんな答えが返ってきた。が、生き物の命を奪った以上、感謝を込めて出来るだけ多くを食べた方がいい、ということは直感的に、もしくはこれまでの教育の成果として薄々分かっているようだ。なんだか哀れなニジマスに、心の中でそっと手を合わせる。