原発問題についての平凡な雑感



 福島の原発の事故は、震災当初から、家族の安否確認を別にすると、私にとっての最大の関心事だった。チェルノブイリを思い出すまでもなく、福島原発から石巻までの110Kmという距離は、深刻な原発災害のレベルでは、「至近」と言ってよいものである。原子力というのは、人類にとっての「パンドラの箱」だ。非常に魅力的でありながら、飼い慣らすのは極端に難しい。途方もなくパワフルで、ひとたび暴走を始めると、人間の力ではいかんともし難い。それが遂に暴走を始めたのだ、と思った。

 かつてこのブログでも引用したことがあると思うが、ローマ史学の大家・塩野七生が、著書の中で繰り返す言葉に、「人間は、自分が見たいと思う現実しか見ない」(カエサル『内乱記』)というものがある。原発に関する「想定」とか「絶対安全」とかいったかつてのせりふを耳にする度に、私はこのカエサルの言葉を思い出す。初めて読んだ時、気にも止めなかった言葉が、その後のいろいろな場面で真実として意識の上に上るというのは、その言葉の深さ・確かさを示すように思う。この場合、「想定」というのは、「予想し得ること」ではなく、「そうであって欲しいこと」に過ぎない。

 なぜそうまでして原発を作ったのかというと、答えは至って簡単。電気の利用者にとっても、電力会社にとっても、更に、原発を受け入れた地方にも利益が大きいからである。三つどもえの欲望の結果なのである。

 避難を余儀なくされた人々の中には、利益に目がくらんで原発を認めたことを正直に言う人もいた。そう、原発を受け入れれば、地方に雇傭が創出され、お金が落とされるのである。女川町が平成の大合併石巻市と合併せず、飛び地となっても独立を選んだのは、原発からの豊かなお金があったからだし、女川原発にほど近い我が家でも、年に5000円ほどの「原子力立地交付金」なるものが東北電力から支給される。疲弊した地方にとって、これは非常に魅力的である。だから、電気を大量に必要とする東京等の大都市に原発を作ればいいものを、地方の弱みにつけ込む形で原発は作られてきた。どちらの側にも非はあるようだが、電力会社は強者で、地方の人々は同情に値する面があるという意味で、前者の方がより一層悪いような気がする。しかし、この期に及んで東電に怒りをぶつける地元の人々を、多少は勝手だとも思う。「絶対安全」な施設を作るために、利潤を追求する企業が多額の補償金を積んだりするわけがない。本当に、原発問題は世の中を映す鏡だな、と思う。

 もう一つ、私が今回の原発事故で印象的だったのは、外国と日本の反応の違いであった。

 震災の直後から、海外からは、早く日本を離れろというメールが来たし、宮水避難所にも、石巻でお目にかかることなどほとんど無い外交官ナンバーの車がやって来て、避難所にいた自国民を出国させるために連れ出して行った。あるヨーロッパ人から来たメールの「They can't stop the atomic accident」という表現は、ぎょっとするほどリアルだった。

 かつてこんなことがあった。

 1988年1月、私はアルゼンチン・ブエノスアイレスにいた。ブラジルビザを取得しようとしたところ、黄熱病の予防接種証明書(イエローカード)が必要だと言われたので、港に近い国立検疫所で週に一回行われる予防接種に出向いた。私が行くと、既に建物の外まで100m以上の長い列が出来ていた。並び始めて10分以上経った頃、列がざわつき始め、私の前後に並んでいた主に白人の旅行者が、列を離れだした。何事かと思って尋ねてみると、どうやら検疫所の中では1本の注射器を使って回し打ちをしているらしい。列を離れた欧米人達は、近くの薬局に使い捨て注射器を買いに走ったのである。彼らのただならぬ気配につられ、私も彼らの後に付いて注射器を買いに走った。しかし、この時、私が注射器の使い回しがいかに危険かということについて、正確な認識を持っていたとは言い難い。これが私が鈍かったということなのか、一般的日本人の認識レベルを表しているのかも分からない。あくまでも、彼らの緊張感に引き摺られて真似をしただけである。エイズや肝炎の問題から、注射器の使い回しが日本の社会問題となるのは、この後である。

 原発、或いは放射能というものの危険性に対する欧米と日本の認識の違いは、これとよく似ているようにも思われる。つまり、欧米人がナーバスに過ぎるのではなく、日本人が「まだ」暢気に過ぎるということだ。

 原発見直しの声は大きくなっている。原発は危険だ、止めろ、と言うのは簡単である。しかし、需要に合わせて供給しようとすれば、現時点での原発廃止は難しい。需要そのものを減らす努力が必要なのである。

 電気の消費量は増えるばかりである。特に最近は、オール電化住宅が増えた。温暖化なのか、暑い夏が多くなって、エアコンを家に付けるのは当たり前となってしまった。電気自動車を増やそうという動きも強い。確かに、電気自動車は排気ガスを出さない。しかし、その電気をどのように作るかについては、驚くほど無頓着だ。

今回、計画停電だという話になったおかげで、ようやく、世の中ではいろいろと節電の取り組みが試行され、報道されるようになった。今回の原発事件が、原発の見直し、節電への取り組みのきっかけとなるなら、事件もそれなりに値打ちがあった、と言うべきである。もちろん、事態がこれ以上悪化しなければこそ、「値打ち」などど暢気なことが言ってられるのだけれど・・・。