人間は急激な変化に耐えられない・・・50年がかりの脱原発を



 日本国内の原発の運転を再開するかしないかでもめている。福島の事故に加えて、浜岡原発の運転停止とか、イタリアの国民投票の結果とか、いろいろと影響しているのであろう。

 私はもともと原発反対派なので、これは原発廃止のチャンスだ!と大喜びしているが、実は必ずしも無条件「大喜び」ではない。そもそも、私が原発反対派でありながら、それほど積極的に運動に関わってこなかったのは、自分もそれなりに電気を使っているという後ろめたい気持ちがあったからである。

 我が家にはエアコンはない。夏も小さな扇風機が一つだけだ。冷蔵庫は、275リットル。テレビは20型が1台、ファックスはなく、パソコンも夫婦で1台。もちろんオール電化ではない。トイレの便座は冬でもコンセントを入れない(カバーを掛ければ苦にならない)。石油給湯器やFFヒーター(さほど大きいとも思えないものが家全体で1台しかない)、小型のコンポ、電子レンジ(よく使う)、電気オーブン(週に2回くらいパンを焼く)、ホットプレート(使うのは2週に1回くらいか?)、電気ピアノ(毎日使う)、炊飯器(4合炊き)、アイロン、電話機、掃除機(400w)、洗濯機(42リットル)、これに24時間換気のファンと浄化槽の循環装置、それに照明、これが我が家の電気機器だ。もちろん、テレビを始め、冷蔵庫、給湯器等ごく一部を除くと、使わない時は常にコンセントが抜いてある。これらの結果として、電気の消費量は、4人家族としては非常に少ない方ではないかと思っている。それでも、やはり私には贅沢に思え、原発廃止を大声で叫ぶことにためらいを覚える。

 電気を好きなように使っていて脱原発はあり得ない。最近、電力事情が逼迫してきて、ようやく「節電」ということが言われるようになってきたのはいいことだが、まだまだ甘っちょろくてお話にならない。炎天下で稼働し続ける自動販売機(←これはほとんど日本の文化だ!それほど切羽詰まって必要な物には思えないのに、消費電力は非常に大きい)の全廃くらいはまず手を付けなければ、本気度が疑われるというものだ。

 人間、いや生き物は全て、急激な変化が苦手である。特に、自分が楽で快適な方に変化することは、少々急激でも耐えられるが、その逆は本当に大変。温暖化問題にしても、過去何億年かの地球の温度変化を見ると、経済活動による二酸化炭素問題などなくても、非常に大きく変わっている。ところが、現在の温暖化問題がなぜ深刻かというと、未だかつてなかったほど短期間で温度が変化しているからである。

 原発廃止はけっこう。しかし、原発の危険性に目覚めたから即運転停止→廃炉というのは暴論である。人間(日本人)は、約50年かけて今のような原発依存状態を作ってきたのだから、廃止にするためには50年という時間が必要だと思った方がよい。人間がもともと急激な変化に耐えられないのに加えて、この変化は生活の質を落とす方向に向うものだからである。自動販売機を容易に撤去できないことは、急激に何かを変えることの難しさをよく表している。

 簡単に代替手段が見つかったりはしないと覚悟すべきでもある。石油は、温暖化の元凶である上に、間違いなくもの凄いスピードで枯渇へと向っているし、太陽光にしても、風力にしても、火力発電所と同じだけの出力を得るには、膨大なコストと場所が必要になる。この場合、「コスト」というのは、「石油の消費」と非常に意味が近い。

 見境のない即廃止論のおかげで、冷静に考える以上のスピードで脱原発が実現すれば、それはそれでけっこうなことだが、なかなか難しいのではないか?工程表を作り、50年かかると覚悟して、代替発電手段の開発、省エネ生活の徹底と技術開発、そして原発の廃止を実現させよう。それまでの間にまた原発が大事故を起こしたら・・・?それは仕方がない。今まで目前の利益につられ、危険から視線をそらせてきた人間への天罰とあきらめて、悲劇を引き受けるしかないのである。