小学校の授業参観



 中間考査二日目の今日は、県総体の「振替休日」を強引に取った。仕事のことを真面目に考えていれば、金輪際休みなんか取れないような気がする。今日休みを取ることにも多少の不都合があって、人に迷惑をかけもしたのだが、私はドライに割り切ることにした。休む権利も行使せずに仕事をしているのは、日本人の美学としては「格好いい」かも知れないが、休むことによって得られるものがあり、それがその後の仕事に還元されるなら(ここをあまり難しく考えてはいけない。疲労がとれるでも十分。だから、「されるなら」と書きはしたものの、実際には「されるはずだから」が正しい)、その方がメリットが大きいという場面も多いだろう。だから、私はいいと思っている。

 さて、今日から3日間、娘の通う小学校の「学習自由参観(授業公開)」だというので、午前中は小学校に行っていた。娘がどんな態度で授業を受けているかではなく、小学校の授業そのものに興味があったのである。なんと、大人の立場で小学校の授業を見るのは初めてのことである。

 我が娘の通う門脇(かどのわき)小学校は、以前(4月23日)にも書いた通り、津波とその後の火災で廃墟となってしまったので、門脇中学校の3階を借りて授業をしている。教室は6つ。つまりは、各学年ひと教室である。1年生は24人なので問題ないが、3年生は54人いる。それでも教室はひとつである(本来ふたクラスであるところ、ひと教室で行っているが、教員定数が変化するわけではないので、ひと教室当たりの先生の数が倍になる(2かどうか不明)。生徒が立ち歩いて掌握が難しいという状況ではないようなので、これはかえっていいことだ。一人が中心になって授業をしながら、他の先生がせっせと机間巡視で、個別対応をしていた)。

 高校にも授業公開週間というのがあるが、参観者が来ることはまれである。せいぜい、同僚が来るくらいで、外部からはゼロに近い。小学校も似たようなものだろうと思っていたら、父親も含めて、常に各クラス1〜5人が参観しているという盛況ぶりだ。廊下で、かねてからよく知っている講師のU先生に会った。U先生は、「避難所(門脇中学校もまだ避難者がいる)暮らしの方は、時間にも余裕があるし、同じ建物の中なので、気軽に来れるのでは?父親も失業した方が多いからではないか?」とおっしゃる。失業は困ったことだが、授業参観に来れるのはいいことだ。失業しなければ来れないとしたら、そのような日本社会の現実こそが問題だろう。

 2〜4校時、娘の在籍する1年生を中心に、他の学年の授業も見せてもらった。生徒達は学年に関係なく前向きで、先生の問いかけに、「はい!はい!」と元気よく手を挙げる。いいなー・・・!この子ども達が、一体いつの間に、「授業なんて始めから受ける気ありませんよ」といった体の高校生になってしまうのだろうか?

 廊下に、子ども達が書いた絵が展示してある。1年生から6年生へと、順番に見ていくと感動する。そこに展示されているのは、絵というよりも、「人間の成長」とも言うべきものだからである。1年生から6年生へ、子供は本当に直線的に、ドラマチックに成長を遂げるものだと思わされた。

 高校の国語教師として、少し長めの文章を読む授業を見てみたかったが、残念ながら、2年生が最初の朗読、初読の感想を書く段階をやっていたくらいで、内容を丁寧に読み取る段階に至っている授業はやっていなかった。子ども達の純真な学ぶ姿勢にたいする爽やかな印象もあって、この次の機会に、また見せてもらおうと思った。

 2時間目の休み時間、廊下でばったりと石巻高校の教え子Y君に会った。なんと、門脇小学校の4年生担任だという。かつての生徒と、先生─保護者の関係で出会うのは、嬉しくもまた気恥ずかしいものである。Y君の方がその思いは強かったかも知れない。「後で、4年生の授業も見せてもらうから」と言ったら、真っ赤な顔をして大げさに手を振り、「それだけは止めて下さい」と固辞されてしまった。そりゃあそうだろうね。