最高裁判所裁判官国民審査で×を付けよう



 今月14日と21日、私が教育問題の中で最も悪質なものの一つと考えている「日の丸・君が代」問題(このブログ、2010年6月15日の記事参照。また補足的に今年の1月22日の記事も)について、残念な判決が二つ出た。どちらも最高裁判所第3小法廷で、日の丸に向って起立することなどを求めた職務命令が、憲法に違反しないかどうか争ったものだ。訴えを起こしたのは、一つが東京都の職員、もう一つは広島県の職員だ。これで、最高裁の三つの小法廷全てが、この手の問題で同じ判断を示したことになるという。

 合憲である理由は、「行事を円滑に進行する目的などを総合的に比較すれば、制約を許容できる程度の必要、合理性がある」ということだ(「河北新報」)。こういうのを「木を見て森を見ない」議論という。行事の進行が妨害される、と言えば、いかにもケシカラン事のように聞こえるが、そもそも、そこまでして日の丸・君が代を行事に持ち込もうとする方がおかしいのであって、その意図の悪質性に目をつぶって是非を判断しても仕方ないのである。もちろん、裁判所が学校内で行われることに過度に口を挟むことは避けなければならない。しかし、ことは憲法前文に書かれた、戦後日本の基本姿勢に関わるのである。私がかつて憲法を学ぶのに使った伊藤真の司法試験対策講座のテキストでは、精神の自由について、その章の冒頭に次のように書かれている。

 「近代憲法は、国家からの自由、すなわち、自由権を人権宣言の核心として保障してきた。この自由権のうちでも、人間の精神活動の自由である精神的自由権は、民主制の発展とともにその重要性を増大し、いわば優越的地位にあるとされる。精神的自由が保障されないところに、国民主権も機能せず、議会制民主主義も形骸化してしまうであろう。また、権力者は国民による精神的自由権の行使が自らの地位を脅かすことをおそれるあまり、精神的自由を不当に制限する傾向にある。このことからも精神的自由権は、国家主権に対する制約として機能する人権保障のうちでも重要な意義を持つ。」

 まるで日の丸・君が代問題を念頭に置いたかのようなフレーズである。これを信じれば、最高裁判決はあり得ないし、最高裁を支持すれば伊藤真は嘘つきだということになるだろう。しかし、私には伊藤説の方が絶対に正しいと思われる。なぜなら、正に教育現場における上位下達の徹底は、民主主義を内部崩壊させるものだからだ。

 最高裁判所の判事ともなれば、日本の法曹界の中でも最も優秀な人たちなのだろうと思う。その人達が、今回程度の判決しか出せないとすれば、人間のDNAには、もともと破滅へと進むプログラムがインプットされているとしか思えない。

 私達に出来ることは何だろう? いろいろあるかも知れないが、私が最近、度々思うのは最高裁判所裁判官の国民審査権を有効に行使することである。今回の第3小法廷について言えば、合憲としたのが5人中4名である(14日も21日も同じ)。つまり、反対者が1人いたわけだ。反対したのは、田中睦夫氏(弁護士出身)である。次の国民審査の際に、田中氏以外には×を付けるのである。国民に裁判官1人1人の実績が見えにくい上、制度的にも問題のある「審査権」だが、こういう状況の中では「形骸化した制度」などと言っているわけにはいかない。制度に魂を入れるのは、制度を作った人々ではなく、それを行使する人間である。

 前回の国民審査でも、どこかの市民団体から「真面目に考えて「×」を付ける」呼び掛けが為されたと記憶する。ぜひ、次回の投票の際には、大々的に問題を提起したいものである。日の丸・君が代問題(=教育権問題)は、震災復興と比べても、社会保障と比べても、将来の日本にはるかに大きな影響を持つ大問題だ。