空気を運ぶ鉄道とバス・・・JR北海道再考



 3連休、1日は家庭のために、1日は自分のために、1日は仕事のために使った。天気にも恵まれ、いい休日だったと思う。

 自分のために1日を使えた昨日、前夜、田中が負けたのを見届けた瞬間に、何の脈絡もなくふと思い立って北茨城へ行くことにした。北茨城とは、10月31日の記事に書いたとおり、岡倉天心が晩年を過ごした場所である。せっかくの機会だから少しだけ勉強しておこうと、天心に関する遺構を見に行くことにしたのである。時刻表をパラパラ見てみると、幸い、日帰りできそうである。

 とは言え、仙石線が一部不通、常磐線も一部不通の現在、北茨城へ行くのはなかなかに面倒だ。最終的に決めたルートは次のとおりであった。

(往路)石巻5:22→高速バス→6:50仙台7:10→新幹線→7:53郡山8:00→JR普通→9:37いわき9:43→JR普通→10:15大津港

(復路)大津港15:30→JR普通→16:01いわき16:40→高速バス→19:40仙台19:50→高速バス→21:15石巻

 震災前、すなわち仙石線常磐線も動いていた時ならどうだったのかな?と気になったので、震災前の時刻表を引っ張り出してきて考えてみたところ、次のようになった。

(往路)石巻5:22→JR普通→6:44仙台7:14→JR特急→9:42大津港

(復路)大津港14:30→JR普通→14:58いわき15:13→JR特急→17:13仙台17:24→18:47石巻

 滞在時間は若干短くなるが、同じ時刻に出発して、2時間半早く帰って来られた(=日本シリーズ第7戦をほとんど最初から見られた)、ということになる。バスの時刻は鉄道ほどアテにならないので、昨日は帰宅時刻がもっと遅くなった可能性もある。そう思うと、確実に7時前に帰宅できたであろう震災前は、やはりよかった、と思う。乗り換え回数も、震災前の方が2回少ない。参考までに料金も計算してみると、昨日は11510円、震災前なら11980円で、震災前の方が少し高い。郡山を経由しないため距離は相当短いし、新幹線も使わないのになぜこうなるかというと、新幹線とさほど変わらない特急料金が往復分必要な上、いわき→仙台の高速バスがひどく安いからである。

 とは言ったものの、磐越東線(郡山→いわき)に乗って、のんびりと日本の秋の山里風景を堪能させてもらった上、夏井川渓谷に沿った部分では、紅葉見物のための徐行サービスまであって、旅行を「線」と考える私(←2011年9月27日記事参照)にとっては、道中もなかなか楽しかった。 

  話は天心にたどり着かないのであるが、もう少し道中の話を続ける。昨日私が乗ったバス、列車の中で、人がそれなりに乗っていたのは磐越東線の最後の二駅間(小川郷〜いわき)と帰りの仙台→石巻のバスだけである。あとはほとんど貸し切りに近いガラガラ状態であった。3連休の中日に、である。快適なのはよいが、そう喜んでばかりもいられない。

 人が移動していないわけではないと思う。おそらく、時間帯や便によほどの偏りがあって、たまたま私がそこから外れていたか、自家用車に流れているかであろう。高速道路は相当量の車が走っていたから、私は主に後者であると想像する。恐ろしい無駄である。公共交通機関(特に鉄道)を利用することが「エコ」であるというのは、あくまでもそれなりに人が乗っていれば、の話である。極端な話、新幹線1編成に乗客が1人だったら・・・?もちろん、その反「エコ」度は、間違いなく資源と環境の敵とも言える自家用車の比ではない。鉄道やバスを動かしておいて人が乗らず、更に自家用車をたくさん走らせる。私はそのような見境のない「豊かさ」に恐れおののくのである。

 ところで、先日(9月29日)、このブログで、不祥事の続くJR北海道について一文を書いた。当時私は、JR北海道の事故が、職員の意識の低下によるものだと思っていたのである。だが、その後のいろいろな情報に接していて、それは必ずしも正しくないと思うようになった。確かに、特に管理職の意識の問題は大きいかも知れない。だが、経済的な事情から、保線にお金が費やされていないという問題が、むしろ大きいように見える。お金の使い方を間違えているという問題ではなく、鉄道業がその経営に必要なお金を生み出せていないのだ。JR北海道がJRタワー(札幌駅)に代表される副業路線を走ったのも、「もうけ主義」と言うよりは、鉄道の赤字を何で埋めていくか、という危機感が強かったからのように思え、私は同情を感じた。

 なぜ「同情」か?

 そもそも、北海道は人口密度が小さく、集客が難しい。厳しい自然環境ゆえ、施設管理も大変だ。東京から北海道を訪ねる人の多くは飛行機で渡道する。北海道を公共交通機関のみでまわる観光客は少ないだろう。団体旅行でなければ、自宅からか、現地でレンタカーを借りてかは分かれるにしても、自家用車で回る人が圧倒的に多いのではあるまいか?にもかかわらず、乗客減少との悪のスパイラルを避けるためには、料金を極端に高く設定するわけにはいかない。現在の料金を値上げすることは更に難しい。公共的使命や世間の批判を考えると、路線の廃止も難しい。こうなると、鉄道維持の経費を切り詰めるとともに、副業で稼ぐしかない、となっても仕方がないではないか。

 交通機関とか、移動とかに関する社会的な計画性というか、哲学のなさが、問題を生んでいると思う。新幹線が開通する時に、在来線を切り捨てて第三セクター化するなどもその典型だ。いろいろな交通機関をどのように役割分担させるのか?資源と環境と効率との間で、どのように人を振り分けるのが望ましいのか?それらを考えることなく、人々の欲望と目前の利益によって生み出されたのが、現在の交通システムのように思えてならない。産油国でもなく、国が1000兆円もの借金を抱えていても、力業で高速道路や新幹線を整備し、電車やバス(多分、飛行機も)が空気を運ぶことを何とも思っていない・・・私には異常なことに思える。

 ガラガラの車内で、のんびりと景色を眺めながら、一方でそんなことを考えていた。