「在校時間記録簿」という言葉の意味



 昨日に続き、教育長交渉のことについて書く。本当は、そこで話題になったことを全て書けば、一般の方々に多少は学校で何が問題になっているか分かっていただけると思うが、そこまでの元気はない。

 県は私たちに、昨年の9月から「在校時間記録簿」というものをつけさせるようになっている。毎日の出勤・退勤時刻と時間外勤務の内容を選択式で記入し、月末に提出させるというものだ。タイムカードのようなものではなく、各自が自ら入力しなければならない。ほんの少しのことなのだが、案外面倒くさい。

 教員の超過勤務がひどいというのは、以前から問題になっていて、タイムカードを導入しろなどという要求もあったのだが、そんなことをすれば、超過勤務の実態が暴露されることになってしまうので、県は至って導入に消極的だった。自殺による過労死が相次いだこともあったりして、ようやくそれらしきことが行われるようになったわけだ。

 この1年間のデータを見てみると、過労死ラインと言われる月80時間以上の残業を、平均してしている教員が、県立学校職員全体の11.2%、高校では15.1%、中学校(県立なので2校しかない)はなんと35.6%に上った(以上は11月15日の『河北新報』にも出た)。1ヶ月の残業時間が200時間を超えた人も、のべで8名いたらしい。200時間超はさすがに想像を絶するが、100時間や150時間は意外な感じはしない。

 しかも、ここには表れてこない「持ち帰り仕事」というのが教員には多い。県の調査ではこれが対象外となっているが、全日本教職員組合が独自に実施した勤務実態調査では、その点についてもデータが取られていて、それによれば、持ち帰り仕事の月平均は、宮城県の場合、29時間だそうである。県の調査による残業の平均時数は50時間くらいなので、両者を足すと平均で過労死ラインに達することになる。

 周知の通り(?)、教員には残業手当がない。部活動だけが例外で、土日に4時間以上指導に従事すると2400円(時給ではない。日給である。4時間以上は何時間でも同額)の「特殊業務手当」が付く。学校で活動する場合、通勤手当(土日を除く約20日で計算されている)の割り増しは付かない。だから、少し遠くから通っていると、2400円は通勤旅費だけで消える。

 その代わり、教員には「教職調整額」という名前の4%割り増しがある。約20分の時給に相当する。今回の交渉で知ったのだが、この「4%」が登場したのは、40年前で、当時は毎月の残業時間の平均が8時間だったそうだ。当時は土曜日があったから、月25日で、1日当たりに直すと正に20分だ。ところが、今は20日で50時間、持ち帰り仕事を含めると80時間だとすれば、まったく実態には合っていない。にもかかわらず、「4%が出てるでしょ?」と言われたのではたまらない。

 加えて、そもそも、法的には、原則として教員には残業を命じてはいけないことになっている(教職員の給与に関する特別条例)。この場合の「命じる」とは、校長が「〜せよ」と直接に言うものだけではなく、仕事を割り振られた結果としてせざるを得ないことは、すべて命じられたことになる(当たり前)。原則に当たらないもの、すなわち、例外とは、限定4項目と言われているもので、それは以下の通りである。

・生徒の実習に関する業務

・学校行事に関する業務

・職員会議に関する業務

・非常災害等やむを得ない場合に必要な業務

ただし、これらについても「臨時または緊急のやむを得ない場合に限る」という縛りが掛けられている。楽をさせるのが目的の訳はない。おそらく、「勉強を教える」という教員の専門性を尊重し、そのために絶えず自己研鑽を求める、という思想が背後にあるのだろう。正しい考え方だ。組合が求めるとおり、まずは法令をしっかりと遵守できるようにするという当たり前のことが必要だ。

 この点について、交渉の中での指摘でなるほどと思ったのは、県の勤務時間記録簿が「在校時間記録簿」と名づけられていることの意味だ。つまり、「勤務時間記録簿」としてしまったのでは、正規の勤務時間7時間45分からはみ出した分を「超過勤務(=残業)」と認めざるを得ない。残業を命じることは違法である。だから、「在校時間」という、何のためか分からないが学校にいた時間、というひどく曖昧な表現を作り出すことで、責任をはぐらかそうとしたのだ。この組合の追求は正しいだろう。「軍隊」を「自衛隊」と言い、私企業が引き起こした「環境汚染」を「公害」と言うのと同じ、言葉によるごまかしである。

 ところで、私自身は生活に困っていないので、残業の有無に関係なく、給料を上げろと叫ぶ気にはならない。勤務時間についても、長いことが直ちに悪だとも思わない。人間は、楽しいことにはいくらでも時間を費やせるからである。しかし、年々仕事の質は低下して、楽しいと思えることが少なくなっている。義務的な研修であれ、免許更新であれ、各種調査や学校評価であれ、出張のための宿題(大抵は提出するだけで使わない)であれ、なんでこんなことに時間と労力を費やす必要があるの?と首をかしげるような仕事ばかりが増え、本当に時間を費やしたいと思う仕事に時間を費やせなくなっているのだ。各自の問題意識に基づいた能動的な試行錯誤の時間が減り、義務ばかりが増えた。義務は人を育てないし、義務が多ければ多いほど、義務を果たすことが目的化し、義務を果たせば後は何もしたくないという意識を生む。「仕事の質の低下」とは、自分の実力が低下していい仕事ができなくなった、という意味ではなく、やるべき仕事自体がくだらなくなったということである。

 教員の勤務時間問題は、時間の長さだけで議論してはいけない。そして、本来教員の職務とは何なのか、どうすることが長い目でプラスになるのか?と考えなければ、すぐに「民間だって大変なんだ」という声によって本質を見失い、何でもいいから長い時間バタバタと走り回っていれば、本人も頑張っているという倒錯した充実感に酔いしれることができ、世間も納得する、という哀しい喜劇に陥ってしまう。