通販と小売店

 昨日、左藤玲朗というガラス作家が作った広口コップを買った話を書いた。その際、どうせだったら左藤さんが見ている前で買ってあげればよかった、とも書いた。実は、これは善し悪しらしい。
 左藤さんは土曜日の夜、作家の生活は苦しい、という話をしきりにしていた。炉を維持するための光熱費がかさむ上、1日に作れる個数は限られている。そして、その状態から脱するためには、インターネットによる直販しかない、ということもしきりに言っていた。今までのお店との付き合いもあるし、作った製品の3割くらいはお店に出すが、7割はネット通販で売りたい、と言う。だとすれば、お店で品定めをしておいて、左藤さんに直接申し込む方がいい、という考えも浮かんでくる。
 個展を開いているお店の中でこんな話をするのも妙なものだが、こうなると、小売店とは何だろう、どんな機能によって価値を持つのだろう、という疑問が湧いてくる。ラボの店主の話を聞いたり、店内で品定めするお客さんの様子を見ながら、私は少し考え込んでしまった。
 私はネット通販否定論者である。古書を探したりするのに絶大な力を発揮し、私もそれに頼ることしばしばなのであるが、使わずに済むなら使わない方がいいと思っている。富を集中させ、地域の小売店を衰退させるのはいかがなものか、という思いをもあるし、通販はエネルギーの過剰な消費(資源の枯渇と環境の悪化)を生む、という思いが強い。
 だが、もっと本質的な話として、私がラボで実際に左藤さんのコップを手にとって品定めしなかったとしたら、私はそのコップを買う気になただろうか?と考えてみる。高価な品物ほど、実際に手に取ってみなければ不安だという気持ちは強いだろう。あるいは、ラボがなかったら、私は左藤玲朗という作家の名前を知り得ただろうか、とも考える。
 そして、知識と似ているぞ、と思う。インターネット情報がなぜダメで、新聞や雑誌による情報がなぜいいのか、電子辞書も便利ではあるが、なぜ紙の辞書が捨てられないのか、と言うと、自分が知りたいことをピンポイントで知るのに好都合なのがネットであり、電子辞書で、俯瞰性が高く、調べる過程で他の情報にも目が行くのが紙情報だ。一つの単語に意味を知るだけならデジタル、だが、調べる過程で、余計な情報が視野に入ってくるということの価値は侮れない。紙情報の方が、印象や内容を頭に刻みつけやすい、ということもあるような気がする。
 左藤玲朗さんの作品が欲しい、何が何でも左藤さんの作品を買うぞ、と思っている人にとってはネット通販も便利だろうが、それでは、こんなものが欲しいというイメージから左藤さんのコップにたどり着くことは難しいし、まして、湯飲み茶碗を買おうと思っていた人が、ふと左藤さんのコップを手にとって買ってしまう、というような現象は起こらない。
 こう考えると、実物を手に取らずに買うのは不安だという人のためだけではなく、小売店が果たしている、様々な作品・作家を紹介するという機能はなかなか重要だ、ということが分かる。私はラボで左藤さんの存在を知ったのだから、紹介者であるラボに感謝し、やはり、ラボで作品を買うのが正解だったのだ。誰がどんな仕事をしたか、それを意識しながら、払うべきところにお金を払う。なまじ「便利」になったばかりに、元々は当たり前だったこんなことを、わざわざ意識しなければならない世の中になった、というのは妙なものである。