救いのない悲劇

 今日は仕事を休み、仙台へ行っていた。いくつか用事があったのだが、メインは、藤原歌劇団プッチーニ蝶々夫人」である。生オケ公演で、私が買った3階席のチケットは驚きの2000円。一番高い席でも7000円。文化庁による補助金が出ているとは言っても、場面の割愛やオーケストラの編成圧縮でもあるのではないかと心配になるほどの値段である。ところが、まだ学校が夏休みであるにもかかわらず、平日の14時開演がたたってか、客の入りはせいぜい7割くらいであった。信じがたい。
 星出豊指揮パシフィックフィルハーモニア東京に、蝶々夫人=伊藤晴、シャープレス=折江忠道、ピンカートン=澤崎一了、スズキ=但馬由香ほかのメンバー(全て日本人)。演出は、粟國安彦。心配していた場面の割愛やオーケストラの縮小はなく、舞台装置も十分に立派。そして何より、出演者もハイレベル。ひやひやしたり、伸びない声にストレスを感じたりすることなく、最初から最後まで素晴らしい演奏だった。演出も、地方公演だということもあるのだろうが、奇をてらったようなものは何もなく(→参考記事)、至ってオーソドックスでよかった。オペラの演出はこれでいいのだ。
 ところが、もちろん行く前から分かっていたことなのであるが、私はこの「蝶々夫人」というオペラがあまり好きではない。あまりにも救いのない悲劇でありすぎて、後味が甚だよろしくない。
 知らない人のために、ごくごく簡単に筋書きを書いておくと、次のようになる。

「19世紀末に長崎にやって来たアメリカの海軍士官ピンカートンが、業者の世話で日本人女性と結婚する。ピンカートンにとっては、あくまでも日本滞在中の妾に過ぎなかったが、女=蝶々さんは自分を本妻と信じ、夫を本気で愛する。やがて、ピンカートンは再来を約束してアメリカに帰る。その間に蝶々さんは出産し、夫の再来を待ち焦がれる。3年後、ピンカートンは再来するが、アメリカから本妻を連れてきた。それに衝撃を受けた蝶々さんは自殺してしまう。」

 この話が「救いのない悲劇」であるのは、ただ単にひたむきな女性が捨てられたとか、恋が破局を迎えたというのではなく、男と女の間に明らかな立場の強弱があるからだ。男は強国アメリカの海軍士官、女は弱国日本の地方都市で、元々は士族の娘であったが、芸者に身を落としていた女だ。男は、いわば金の力で、一人の日本人女性を日本滞在中の慰み者にしたのである。
 プッチーニという作曲家が、薄幸で純情な女性を殊更に好んだというのは、おそらく有名な話である。しかし、「蝶々夫人」なる作品を見ていると、プッチーニにとって「薄幸で純情な女性」はお人形に近い存在であって、生身の人間ではない。だから、蝶々さんにスポットを当てながら、ピンカートンに対する怒りが一切ないのだ。蝶々さんの自殺も、「薄幸」をよりドラマチックにするための装置でしかなかったように思われる。そんなプッチーニの目が、私に後味の悪さを感じさせる。
 言っておくが、私はプッチーニの音楽が決して嫌いではない。特に「トスカ」は、オペラの中ではお気に入りベストファイブに入るくらいである。その「トスカ」も、最後は女の自殺で終わる。しかし、「蝶々夫人」のような後味の悪さはない。政治的な駆け引き、女と複数の男の愛憎関係によって、不意に自殺を余儀なくされたに過ぎないからだ。
 確かに素晴らしい演奏だった。それでも、私は素直に「素晴らしかった」とは言えない。作中で起こっていることはあまりにも理不尽で、非道徳的だ。しょせんは「お芝居」で、物語は道徳の教科書ではない。それが分かっていながら、カーテンコールで、ピンカートンと蝶々夫人が手をつないでお辞儀をするのに対してさえ、強い違和感を抱いたほどだ。ピンカートンの非道さを批判することなく、蝶々夫人の薄幸を「美」と認めることは、私にはどうしてもできない。